2010年3月29日月曜日

「思い出す、様々のことさくらかな」 芭蕉

「やは肌のあつき血潮にふれも見で さびしからずや道を説く君」   与謝野晶子

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 そろそろ桜が咲きだした。ここのところ寒さが戻ってきて春どころではないが、やっぱりちらほらと咲き始めた桜を見ると心浮き立つものがある。私にもしっかりと日本人のDNAが染み込んでいるようである。

 今朝から通勤のルートを少し変えた。いつもの駅までの道のりに桜の木がないから、少し遠回りして桜の木の下を通って行くのだ。というのも東京駅につけば味気ないビル街で桜などない。下手をすると桜を見ずに春を終えてしまうなんて事になりかねない。そんなわけでの遠回りである。

 今日札幌出身の人に聞いたのだが、東京の桜は本当にきれいだそうだ。かの地でも桜はあるのだが種類が違うとの事で、こちらのように花びらが多くないのだそうだ。
「『桜吹雪』という言葉は知っていたけどね、東京へ来て初めて本物を見た時は感動したよ」とその人は語ってくれた。そんな桜を毎年普通に見られるのは、実はありがたい事かもしれない。

 それでも都内のいわゆる桜の名所などというところに出かけて行く気は起こらない。人が多過ぎて、例えば上野公園などは酷い有り様だ。それでも11年前に行った北の丸公園は良かった。今ではわざわざそんなところに出かけて行く事もなくて、せいぜいが近所で楽しんでいる。近所と言っても、我が街にはなかなか見事な桜の並木道があって、それはそれで馬鹿にしたものでもない。

 しかしなんと言っても散るのも早い。11年前、北の丸公園に行った翌週に伊豆に旅行した時は、もう葉桜だった。途中で桜の名所のようなところがあったのだが、すっかり葉桜でもう一週間早く来たかったと残念だった事を覚えている。

 偶然にも今年はあの時と同じ暦。北の丸公園に行った3日と伊豆に行った10日が土曜日だ。たった一週間で満開の桜がもう葉桜。早いといえば早い。
 
 散ってしまうとみんなあまり桜の木など意識しなくなる。1年間じっとしていて、一瞬だけ存在感を発揮する。そんな桜は、なんだか人生のようだと言ったら大げさであろうか。普段は平凡な毎日。記憶にずっと残るような出来事が、そうそうあるものでもない。でもほんの一瞬、そういう時が必ずやってきて、あとはその記憶を大事にしながらまた平凡な日々をしっかりと過ごす。

 平凡な日々があるから、いつまでも輝いた記憶が生きてくるのだろう。そんな記憶をたまに引っ張り出してきて密かに愛でるのも悪くはない。日記の助けを借りるとかなり鮮明に思い出せる。そんな記憶をこれからいくつ積み重ねられるだろう。

 「花半開を看る」というが、これから徐々に咲いて行く桜を見るのはいいものである。同じ暦だからといって、同じ出来事が起こるわけではないが、桜は確実に咲く。確実に咲くからこそ、慌てず、ゆっくりと咲いてほしいものである。これからほんのしばらく、日本人として生まれた喜びを毎朝味わいたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「最後の授業」ランディ・パウシュ
「時の風」廣岡洋子
     
     

2010年3月27日土曜日

その時どうすべきか

 五木寛之の『人間の運命』という本を読んだ。小説ではなく、運命について語った一冊である。

 少年の頃、両親と共に渡った朝鮮半島で終戦を向え、混乱の中で帰国。飢えと寒さとに苦しめられながら、ソ連兵と北朝鮮兵の目を盗んで脱出。途中で逃避行に足手まといとなる2歳の妹を置き去りにしようとする。そんな強烈な原体験を持つ五木寛之の運命論は、ぐっとくるものがある。

 印象的だったのは、そんな自らの経験の中で、人生は不条理であるとした中で語られる言葉。生きて帰国できたのは、常に良き行いをしていたものではなく、他人を押し退けた者。トラックの最後のスペースに人を押し退けて乗った人は帰国でき、親切にも譲った人はどうなったかわからない、というところ。

 そういえばタイタニック号の悲劇でも似たようなことがあった。沈みゆくタイタニック号に十分な数の救命ボートはなかった。極寒の海でボートに乗れないという事は、すなわち死を意味する。女性と子供を優先させた多くの紳士たちは命を落とし、ある日本人男性はボートに飛び乗って生還し、のちに大いなる批判を浴びた。

 順番を譲って死んでいった無名の紳士たちは確かに立派だが、生き残った日本人男性(本人はたまたまタイミング良くスペースが見つかったというような事を確か語っていた)が例え、人を押し退けて乗ったとしてもそれは果たして批判されるべきなのであろうか。法律では、海に落ちて溺れる者が別の者から浮き輪を奪って助かった場合、奪われた者が溺れ死んだとしても罪には問われない(緊急避難の法理)。

 法律的には認められていても感情的には難しい。家族としては「どんな事をしてでも」と思うだろうし、幼い子供を抱えていれば、自分としても「どんな事をしてでも」と思うだろう。常日頃「より良く生きたい」と思っているが、「他人を押し退ける」という行為はその中に入っていない。だが、命がかかった場合はどうだろうか。

 そんな事態に出会ったとして、理想論から言えばやっぱり人を押し退けるより周りを見回す余裕と冷静な判断力と他人に手を差し伸べられる力とをもった男でありたいと思う。だがもしも本当にそんな事態になってしまったら、理想通りに行動できるか、またそうすべきかどうかはわからない。少なくとも死んで英雄になるよりも、例え非難されようと生きていればきっと後悔よりも多くのものが残るような気がする。そもそも安全な立場にいた他人が非難する事自体間違っているのだが・・・

 こんな事を考えられるのも平和な時代に平和な環境下で暮らしていられるからに他ならない。五木寛之少年はきっとそんな事で悩んでいる余裕はなかったであろう。そんな事は机上の空論で終えるのがいいのであって、それに越したことはない。理想の自分はあくまで理想として、そんな男でありたいと思うだけに留める事にしよう。そんな妄想を気楽に楽しめる環境がずっと続いてほしいと、ただ思うのである・・・


【本日の読書】
「1年で駅弁売上を5000万円アップさせたパート主婦が明かす奇跡のサービス」三浦由紀江
     


2010年3月24日水曜日

薄型テレビ


 この連休、我が家もとうとう薄型テレビを買った。まだ必要性も感じていなかったのだが、政府が一生懸命消費対策に血道を上げているし、エコポイントも使えるうちに使ってしまえと決断したのである。とはいえ何か買いたい機種があるわけでもない。大阪在住の義弟が基礎調査をしてくれたので、それを基にしてターゲットを東芝のレグザ47インチに絞った。

機種選定から入念な価格調査まで一人で仕切ったのは我が家の妻。先週の木曜日に一人で買いに行って値切りに失敗し、連休中日に家族総出でリベンジとなったのである。

 向かったのは池袋のビックカメラ。ここと向いのヤマダ電機とで比較する予定だった。驚いた事に販売員に話を聞くのも順番制で、開店時間の10時過ぎに行ったにもかかわらず20人待ち。他のフロアーはそうでもなかったから、やっぱり地デジ、エコポイントが効いているようだ。

 我々の対応に出てきたのは、「実習生」のネームプレートが初々しいW君。妻は「あちゃ~と内心思った」そうである。「友人が先週ここで206,000円+ポイント25%で買ったのだが、同じ条件なら即金で買う」と先制パンチ。W君さっそく、裏へと走る。裏で控える責任者に談判に行ったのだ。基本的に ええかっこしいの私は高見の見物だ。

 W君、戻ってきて曰く、「214,000円+ポイント15%しか出せません」。まあ仕方ないんじゃないのと内心思う私。「えっ~」と大げさに驚く妻は、「それじゃ、あかんわ、ヤマダさんに行くわ。だって210,000円+ポイント25%って言われてんのやで、話にならんわ~」と切り返す。タジタジとなったW君は再び裏へと走る。

 ええかっこしいの私はそれでも、「一緒に買うハードディスク14,800円とセットで220,000円くらいで手を売ったら」と一応は妻にアドバイス。多少下げてくるかもしれないし、それで粘るより形を変えた方が下げやすいと踏んだのだ。戻ってきたW君、「204,000円+25%でどうでしょう!」と来た。上出来だ。

 ところが長期保証をつけるならポイント20%だと言う(まぁ仕方がないんじゃないのと内心思うええかっこしいの私)。
「あかんわ~、今時長期保証は当たり前やんか、ヤマダさんはそんなセコイこと言わへんでぇ~、ポイント25%にそこのハードディスクも買うから14,000円にしたってえや」
と妻は攻撃の手を緩めない。それは欲張り過ぎじゃないかと私は目で訴えるが伝わらない。W君再び裏へ走る。「あれじゃ嫌がられるんじゃないの」と妻に言うも、「言うのはタダや」と意に介さない。

 帰ってきたW君、「204,000円+長期保証付でポイント25%+ハードディスクは14,000円!」と回答。「うれしぃ~、実習生なのに優秀やわね」とW君をねぎらう妻。ちなみに今では「標準語を流暢に話せるようになったやろ」と自慢する妻であるが、喧嘩と値切る時は関西弁丸出しである。敵には回したくない、とつくづく思う。

 かくて我が家に薄型テレビがやってくるのは4月の中旬(生産が追いつかないようである)。今のテレビも十分使えるので、お払い箱にするのはちょっと気が引ける。景気対策も良いのだが、モノを長く大事に使うという事も大切にしたいところである。とはいえテレビの到着が待ち遠しい私なのである・・・


【本日の読書】
「人間の運命」五木寛之
「告白」湊かなえ
      


2010年3月22日月曜日

味覚狩り2010

 昨年は5回に及んだ我が家の味覚狩り。基本的に食いしん坊が過半数を占める我が家としてはもう外せない恒例行事だ。そして年間最初を飾るのがイチゴ狩りであるが、この連休初日に実施した。昨年は雨であったが、今年は見事な天気。例年は房総方面へ出かけるのを常としていたが、今年は趣向を変えて佐野へ向った。

 「イチゴ狩り→アウトレット探索→ランチは佐野ラーメン→公園で子供たちを遊ばせる→夕食も佐野ラーメン」というスケジュール。このスケジュールを考えた人物がいかに「花より団子」かがよくわかる。9時開園にあわせて向うも、渋滞で30分ほど遅れる。けっこうな人出であったが、さっそくイチゴ狩り。

 時間制限は30分であるが、さすがに30分もイチゴを食べ続けると「もういい」となる。鼻からイチゴ汁が出そうになったほどだが、甘いトチオトメはとっても美味であった。アウトレットへ行ったところでアクシデント発生。なんとなく調子が悪いと行っていた娘が、駐車場でもどしてしまったのだ。一面イチゴの残骸。近くの公衆トイレで清掃用のバケツを拝借して後始末に追われるハメとなった。まあそれでも車の中でなくてよかったし、幸か不幸か場所も排水溝の上だったから、ラッキーといえばラッキーであった。

 さすがに予定を変更して帰る事にした。しかし、落ち着くまでと、ポカポカ陽気の中、ベンチで小一時間休憩。娘と二人でベンチでまどろむのも悪くない(この間、母親はお買い物だ!)。ランチの頃には娘も少し元気を回復。
そのランチは佐野ラーメン。私自身ラーメン党だし、佐野ラーメンは楽しみにしていた。今回行ったのは、万里というところ。何より手打ちを謳っている麺が他にはない食感で美味であった。大盛りといきたいところであったが、娘は本調子ではないし、長男は一人前食べられないだろうと読んで普通を4人分注文。

 ところが、何だかんだ言って娘はラーメンをほぼ一人前食べてしまった。それどころか、そのあと「佐野名物いもフライ」はしっかり一本食べる始末。
名物芋フライ
食べる事に対するDNAは私譲りではないと断言できる。今はいいけどいつまでも「色気より食い気」だと困るよなぁと思う親心・・・
帰りのパーキングではソフトクリームまで平らげた。

 まあ楽しそうだったから何よりだ。先週からの一連のレジャー。この連休はこれで少し休ませてもらう事になった。いよいよもうじき桜の季節。芯から日本人の私としては、心和む季節の到来を楽しみたいと思うのである…




【本日の読書】
なし

2010年3月21日日曜日

スキー3

 別にネタがないわけではないが、先週スキーに行っていろいろ感じた事があるのでそれを書き留めておきたい。かつての隆盛を失ったスキー場。傍から見ても経営は苦しいのではないかなと思わされる。あれだけ人が溢れかえっていたゲレンデに嘘のように人がいないからだ。

 少子化という事もあるかもしれないが、それだけでもないだろう。今回家族4人で一泊で行ったが、交通費で約35,000円、宿泊で同程度、レンタルスキーとリフト代2日分とスキー教室、昼食費その他で大体100,000円超の出費だ。けっこうかかる。一冬何度も行くというわけにもいかない。独身の頃には気にせずにいられた事だ。

 世間は長い景気の低迷下にある。サラリーマンの給与は過去10年上がっていない。自ずとレジャー資金も減っているのだろうし、スキー場の低迷もそんなところが一因かもしれない。スキー場だけでなく、アルペンも先日我が家の近所の店舗を閉鎖した。ビクトリアもスキー用品コーナーは大幅に縮小されて、ゴルフコーナー等に切り替わっている。スキー市場は確実に縮小している。

 独身貴族の若者でさえゲレンデにはあまりお金を落とさないらしい。車で来て、日帰りで帰って行く。ゲレンデで使うのはリフト代とわずかな食費ぐらいだろう。スキー場側からすると、したがってターゲットはファミリーとなるのかもしれない。友人のブログを見ると「小学生はリフト代タダ」なんてところもあるようだ。少しでも節約したい親からすればありがたい。他のスキー場との少なくなった客の奪い合いを制するための施策なのかもしれない。

 ただ利用側からすると今の状況はありがたい。空いているゲレンデは何よりも楽しめる。かつてはスノーボード禁止なんてところが多かったが、今はスキーヤーと仲良く共存している。縮小したなかでうまく経営を維持してくれれば、スキー人口はなくなる事はないだろうし、残った人達でより楽しいレジャーとして生き残っていくだろう。

 景気は確かに良くなってほしいが、それもほどほどにと思うのは虫が良すぎるだろうかと思うのである・・・


【本日の読書】
「人間の運命」五木寛之
「告白」湊かなえ
  
   

2010年3月18日木曜日

スキー2

 初めてのスキーでおっかなびっくり滑る我が子の姿を見ていて、自分自身がスキーをはじめた頃の事を思い出した。私のスキーデビューは高校一年の正月だった。中学時代の友人3人と越後中里に行ったのだ。

 4人中、私とOとKの3人が初心者。スキーを履くところまでは良かったが、そのあとは慣れない感覚に動けなかったのを覚えている。やがてボーゲンで滑れるようになり、唯一の経験者であったTに誘われてリフトで上の方に向った。快調に降りてきたところ、最後の斜面で壁にぶち当たった。初心者にはちょっと厳しい斜面がそこにあったのだ。

 我々初心者3人組は覚悟を決めて滑り始めたが、たちまち立ち往生。OとKはギブアップして板を担いで斜面を降り始めた。しかし「逃げる」という事が嫌いな私は意地で滑り降りた。登るならともかく、板は担いで降りるものではないとうそぶいて気合いで降りた。逃げるくらいなら転がり落ちたほうがまだマシだと思ったのだ。

 やってみれば別に死ぬわけでもない。カッコ悪かったかもしれないが、とにかく滑り降りたからOとKに対しては優越感に浸った。絶対3人の中で一番うまくなるだろうと思った。しかしその後OとKは大学でスキーを本格的に始め(Oはおちゃらけサークルだ)、あっという間に私よりうまくなってしまった。

 大学ではラグビー部に入ったが、冬のオフになると(普通の大学は冬はシーズンオフなのだ)部内スキーツアーが開催されたのでよく参加した。ラグビー部のスキーツアーは、練習のノリだ。朝からリフトが止まるまで滑るわけだが、休憩は昼食時のみ。お茶タイムなんてものはない。滑り降りてすぐリフトに乗る。その繰り返し。リフトの上が休憩時間という具合だ。

 あの頃はテクニックを磨くよりもスピードとスリルを求めてすべる弾丸スキーだった。平日だからゲレンデも空いていた。みんな普段から「きつい」とか「休もう」なんて言わないから、スキーでも同様だった。一日存分に滑りまくった。

 社会人になって会社の女性たちとスキーに行くようになった時の事だ。さすがに遠慮してゆっくり数本滑ったところ、あとからついてきていた女性たちが、「こんなに一気に滑ったの初めて」と目をシロクロさせながら言った。「今までどんな滑り方をしていたのだ?」と驚いたものだ。ゲレンデも混む週末だし、2~3本滑っては「お茶しよう!」というペースにはなかなか慣れなかった。

 今ではさすがにそういうペースにも慣れてきた。子供たちとのんびり滑るというのも悪くはない。最初の頃を除いて、ほとんど今まで見よう見真似で滑ってきたし、ここらでスクールにでも入ってしっかり技術を身につけるのも良いかもしれない。来年はウェアーも新調して、スキー第2章のスタートと行くのもいいかもしれないと思うのである・・・


【本日の読書】
「8つの鍵」ロイス・クルーガー
「関東大震災~朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子
                
      
    

2010年3月15日月曜日

スキー1

 週末に家族でスキーに行った。子供ができてからスキーに行くのは初めての事。私自身、実に10年振りのスキーであった。

 10年前はと言えば、シーズン中の関越自動車道はスキー渋滞が日常茶飯事。関越周辺のスキー場は土日は激混み。リフトに乗るのも30分待ちというのも珍しくなかった。リフトに並ぶ列で、板を3センチずつ動かして進んで行かなければならない侘しさに閉口していたものである。

 もっとも結婚してからは、東北方面に大倉山スキー場という穴場のスキー場を見つけ、主にそこばかりに行っていた。距離こそ遠いが、渋滞でノロノロ行っても時間的には変わらない。であれば、リフト待ちなく心ゆくまで滑れる方が気分がいい。あそこには何度通っただろう・・・

 ところが、訪れた六日町スキー場(越後湯沢からローカル線で20分ほど)は、実にゆったりのんびり。いや、最近はどこもそうらしい。リフト待ちなど皆無なのである。昼食もお昼の30分ほどのピーク時を避ければゆったりと食べられる。ただ高くてまずいところは昔のままだ・・・

 板も昔は「身長+20センチ」と言っていたのだが、今は「身長-10センチ」くらいで、しかも幅広。だが、かえって板はコントロールしやすい感じがして良かったと思う。埃を叩いて持っていったウェアーは明らかに「年代モノ」であったが、どうせ回りはみんな他人だし、まあ気にしないで滑っていた。10年という月日の差をあらためて感じてしまった。

 生まれて初めてスキーをする我が家の子供たち。二人ともスクールに放り込んだ。キッズスクールに入った長男などは、他に受講者がいなくて、インストラクターのお姉さんとマンツーマン。実に羨ましい限りであった。そのおかげで二人ともボーゲンで滑れるようになった。

 10年ぶりのスキーであちこち筋肉痛になるのではないかと危惧していたが、(実際、最後は膝が笑っていた)これがなんともない。平日帰宅後のスクワットの成果かもしれない。ただ日焼けして赤くなった鼻の頭だけが、何とも間が抜けていて玉に瑕だ。

 今回は往復新幹線を利用したが、心地良い疲労感の中でビールも飲めたし、新幹線も悪くない。また行きたいと子供たちにも好評であった。また来シーズンも行ってもいいだろう。ただ今度は車で行きたいと言う人がいる。我が家の筆頭運転手としてはその点だけが微妙な気分なのである・・・


【本日の読書】
「8つの鍵」ロイス・クルーガー
「関東大震災~朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子
                
   
      

2010年3月11日木曜日

アカデミー賞

 今年のアカデミー賞が発表となった。映画ファンなら注目の大イベントである。今年はジェームズ・キャメロンとキャスリン・ビグロー監督の「元夫婦対決」とか、興業記録を塗り替えている 「アバター」が受賞するのか、とかいろいろと事前に話題となっていた。

 結果的にキャスリン・ビグロー監督が「元夫婦対決」を制し、監督賞とともに 「ハート・ロッカー」で作品賞も制した。ジェームズ・キャメロン監督の 「アバター」は主要な賞からは外れて「惨敗」と評された。

 しかしながら個人的には「意外だ」とか「残念だ」とかはあまり思わなかった。なぜなら、アカデミー賞(作品賞)のイメージと 「アバター」はちょっとあわないなと感じていたからだ。言葉ではうまく説明できないが、「タイプが違う」とでも言うべきだろうか。

 しかし、だからと言って 「アバター」の価値が下がるかと言えばそんな事はない。近年はもとより今年たぶん一番の作品だと思う。ただオスカーとは縁がなかったというだけの事だ。

 そもそも映画なんて(本やドラマももちろんそうだが)、観た人がどう思うかは、十人十色だ。ある人にとって良きものが、別な人にもそうであるという保証はない。なんの変哲もないストーリーが、ある人にとっては同じような経験をした事があるといったような理由で感動を与える事だってあるだろう。逆もまた真なりで、オスカーを取ったからといってそれが良い映画、面白い映画であるという保証はどこにもない。

 私もかつては人の評価を気にしていた時がある。自分はいいと思うが他の人はどうだろう、とか。面白いと思ったのに、他の人がそうでもないというのを聞くとそんな気がしたり。

 「評価は他人が下したものが正しい」とは野村監督の言葉。ただこれは自分自身に関する評価についてであり、こと映画に関しては「自分が下したものが正しい」との信念を持っている。「人がどう思うか」ではなく、当然ながら「自分がどう思うか」を大事にしている。今は他人の評価に左右される事もない。

 「アバター」は残念であったかもしれないが、考えようによってはこれで 「ハート・ロッカー」も観に行きたいと思うようになったから、そういう意味では 「ハート・ロッカー」でも良かったかもしれない。先日観てきた 「インビクタス」もとても感動的だった。
今年は映画の当たり年かもしれない。

 「今年の一番は何にしようか」年末にそんな事で悩めたら嬉しいだろうな。あれこれと人の評価を気にする事もなく、自分の世界で悦に入れたら最高だと思うのである・・・


【本日の読書】
「8つの鍵」ロイス・クルーガー
「関東大震災~朝鮮人虐殺の真実」工藤美代子
                
           

2010年3月10日水曜日

病院にて

 両親が入院して以来、仕事帰りに週末にと見舞いに行っている。父親はまだリハビリが必要なものの、今週末には退院となった。母親の方はまだもう少しかかりそうである。

 母親は糖尿病ではないのであるが、一時的に血糖値が上がっているという事で、血糖値の検査とインシュリン注射を毎日「自分で」やらされている。今週末の一時帰宅に備えて家族の方もやり方を見ておいて下さいと言われて、現場を見学する事になった。

 注射と言えばインフルエンザの予防接種でも健康診断の採血でも私はじっと注射器を見つめる方である。みんな顔を背けているが、どこに何を打たれるのかはちきんと確認しておきたいタチなのである。その私もさすがに自分で自分に注射するという事に対しては滅茶苦茶抵抗感がある。とてもではないが自分ではできそうもない。

 なので自分で打つと聞いて、母親にできるものかと思ってしまった。だが、それはそれ。専用の注射器はシンプルな操作でお腹の肉にちょっと射して簡単に出来てしまう。へぇぇと思わず感心してしまった。簡単とはいえ、注射は注射、母親は一時的なものだからいいが、本格的な糖尿病の人は大変だろうなと実感した。

 ドクターは私よりも若そうな人。しかしながら病棟の筆頭医との事だから大したものだ。所謂「油の乗った」頃なのかもしれない。パソコンの画面を使って症状を丁寧に説明してくれたし、同席した女医さんが内容を丁寧にメモして最後に渡してくれた。丁寧ではあるが、これはあとで「言った言わない、聞いてない」といったトラブルを回避するためだろう。今の時代、医者も大変だ。

 母親の病室に見舞いに行くたびにメンバーが入れ替わっている。みんな短期間で退院していくようである。おかげで母親はすっかり古株だ。隣のベッドのおばさんは娘さんがいるらしいが、見舞いには来ないのだという。袖摺りあう縁だが、いろいろな家庭事情があるようである。

 どうやら母親の退院はまだまだ先のようである。まあ最終的に元気になるなら多少は仕方がない。もう少し通って、この機会にポイントを稼いでおくとしようと思うのである・・・


【本日の読書】
「弱者の兵法」野村克也
「聖夜の贈り物」百田尚樹
    



2010年3月7日日曜日

英語

 今日は娘の英語教室の発表会であった。出し物はクラスごとの英語劇。毎年この時期にやっていて、今回は3回目。

 娘が英語教室に通うようになったのは、「同級生がやっていて面白そうだから」という本人の希望。私としては、自分もそうだったせいか、あまり塾に通わせたいとは思わない。だから「早くから英語教育を」なんて考えはなかったのであるが、まあ本人がやりたいと言うものをダメというほどでもない。そういうわけで通わせた次第である。

 実は私も小学生の頃やっぱり英語教室に通っていた事がある。母親に勧められて、仲の良かった友達が行くというので行く気になったのである。しかし、先生は日本人だったし、2年ほど通って友達が辞めたため、一緒にやめてしまった。今でもあれはまったく役に立たなかったと思っている。

 そもそも英語は早くから習わせればいいというモノでもない。自分自身勉強してきてよくわかったが、英語は「読む、聞く、話す」をひたすら実践するモノで、「勉強する」モノではない。いくら覚えても使わなければ上達はしない。何年も「勉強した」のにいまだに私のしゃべる英語は4歳児程度なのが良い例だ。我が家の4歳の息子の日本語といい勝負だ。

 ただ娘の場合、先生はアメリカ人の女性だし、「英語でアメリカ人と接する」という点だけでもやらせる意義はあるのではないかと感じている。将来的にどうするかは自分の判断だ。慣れ親しんでおけば、「受験英語」でもある程度はなんとかなるだろう。

 劇の方は毎年定番の劇だ。自分の娘は毎年違う劇に出るのだが、どの劇も毎年同じだから正直言って他の子のを見るのは苦痛以外の何ものでもない。セリフは棒読みだし、子供によってはよく聞き取れないし、ストーリーはわかりきっているし・・・もう少し工夫してほしいものだと、アンケートにわざわざ欄を設けて書き込んできた。

 盛り上がっているのは何だかアメリカ人の先生たちと一部の親だけ。シャイな日本人は私も含めてああいう場で大きな声で声援などできやしない。民族性なのかアメリカ人たちの陽気さが羨ましく思えた。どうせだったら、娘にもああいう陽気さも一緒に吸収してもらいたいものである。せっかく「外国人にも発音しやすいように」と考えた名前にしたのだから、物怖じせずにコミュニケーションできるようになってほしいと思う親心である・・・

      
【本日の読書】
なし


      

2010年3月3日水曜日

このままでいいのだろうか?

 
 上巳(旧暦三月最初の巳の日)のころに咲く桃は、安産や強い生命力の象徴とされ、中国ではその実を不老長寿の仙薬とする伝説もあり、さらに魔を祓う力もあるとされていた。ちなみに昔の桃太郎の話は、老夫婦が桃を食べて若返り、子供を授かるという話だったそうである。
 雛壇に嫁入り道具一式が添えられるのは、我が娘が健やかに美しく育ち、良縁に恵まれるようにとの親の願いが込められており、生命力の象徴とされ、魔除けの力があるとされる桃の花を添えるのも、我が子を思う心なればこそだったという・・・
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 2010年度の予算案が決まった。歳出が92兆円。子供手当てだとか高校や高速道路無償化だとかが注目され、「ばら撒き」との批判もされている。ただ今の経済の状況からするとばら撒きもやむを得ないと思う。

 「ばら撒き」を批判する新聞の記事は目にするが、例によって「ではどうすればよいのか?」については書かれていない。今は経済が勢いよく収縮している。それを止めるには「薪」をどんどんくべないといけない。そのための「撒き」なのだし、アメリカも派手にやっている(それ=米国債=を日本に買わせようとしているところが気に食わないところだ・・・)。

 エコポイントだ、エコカー減税だ、子供手当てだとやって、そのあとどうなるかだ。家電も車も一巡りしたら売上はがくんと落ちる。そこでまた振り出しになんて事になったら、目も当てられない。うまく軌道に乗るのだろうか。

 怖いのは借金だ。銀行員という仕事柄、借金の怖さは身に沁みている。歳出92兆円に対して、税収は37兆円。その他を入れても48兆円。なんと歳入の2倍の歳出だ。足りない分は全部借金だ。

 溜まり溜まった借金は1,000兆円に届こうとしている。よくたとえられるが、年収4百万円の人が1億円の借金を抱えているのと同じだ。考えるだに恐ろしい。新聞も世間もそれに対して批判はするが、ではどうしたら無駄な歳出を減らせるのか、と言った議論は出てこない。「政府が悪い」という風潮が諸悪の根源のような気がする。

 本当は自分たちの国だし、自分たちのお金だ。「これは無駄だからやめた方がいいのではないか」という声があちこちから聞えてきて当然なのだ。払うべき税金はなんとか1円でも少なくしようと知恵を絞るわりには、もらうものは真っ先にもらう、人の金だから使って当然だし、痛みも感じない。そんな結果が1,000兆円と言ったら言い過ぎだろうか。

 政府が悪いと批判しても始まらない。自分に何ができると諦めるのもいかがなものか。少なくとも何かないかと周りを見渡すぐらいの気持ちは持っていたいと思うのである・・・


【本日の読書】
「筆談ホステス」斉藤里恵
「再生」石田衣良