「やは肌のあつき血潮にふれも見で さびしからずや道を説く君」 与謝野晶子
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そろそろ桜が咲きだした。ここのところ寒さが戻ってきて春どころではないが、やっぱりちらほらと咲き始めた桜を見ると心浮き立つものがある。私にもしっかりと日本人のDNAが染み込んでいるようである。
今朝から通勤のルートを少し変えた。いつもの駅までの道のりに桜の木がないから、少し遠回りして桜の木の下を通って行くのだ。というのも東京駅につけば味気ないビル街で桜などない。下手をすると桜を見ずに春を終えてしまうなんて事になりかねない。そんなわけでの遠回りである。
今日札幌出身の人に聞いたのだが、東京の桜は本当にきれいだそうだ。かの地でも桜はあるのだが種類が違うとの事で、こちらのように花びらが多くないのだそうだ。
「『桜吹雪』という言葉は知っていたけどね、東京へ来て初めて本物を見た時は感動したよ」とその人は語ってくれた。そんな桜を毎年普通に見られるのは、実はありがたい事かもしれない。
それでも都内のいわゆる桜の名所などというところに出かけて行く気は起こらない。人が多過ぎて、例えば上野公園などは酷い有り様だ。それでも11年前に行った北の丸公園は良かった。今ではわざわざそんなところに出かけて行く事もなくて、せいぜいが近所で楽しんでいる。近所と言っても、我が街にはなかなか見事な桜の並木道があって、それはそれで馬鹿にしたものでもない。
しかしなんと言っても散るのも早い。11年前、北の丸公園に行った翌週に伊豆に旅行した時は、もう葉桜だった。途中で桜の名所のようなところがあったのだが、すっかり葉桜でもう一週間早く来たかったと残念だった事を覚えている。
偶然にも今年はあの時と同じ暦。北の丸公園に行った3日と伊豆に行った10日が土曜日だ。たった一週間で満開の桜がもう葉桜。早いといえば早い。
散ってしまうとみんなあまり桜の木など意識しなくなる。1年間じっとしていて、一瞬だけ存在感を発揮する。そんな桜は、なんだか人生のようだと言ったら大げさであろうか。普段は平凡な毎日。記憶にずっと残るような出来事が、そうそうあるものでもない。でもほんの一瞬、そういう時が必ずやってきて、あとはその記憶を大事にしながらまた平凡な日々をしっかりと過ごす。
平凡な日々があるから、いつまでも輝いた記憶が生きてくるのだろう。そんな記憶をたまに引っ張り出してきて密かに愛でるのも悪くはない。日記の助けを借りるとかなり鮮明に思い出せる。そんな記憶をこれからいくつ積み重ねられるだろう。
「花半開を看る」というが、これから徐々に咲いて行く桜を見るのはいいものである。同じ暦だからといって、同じ出来事が起こるわけではないが、桜は確実に咲く。確実に咲くからこそ、慌てず、ゆっくりと咲いてほしいものである。これからほんのしばらく、日本人として生まれた喜びを毎朝味わいたいと思うのである・・・
【本日の読書】
「最後の授業」ランディ・パウシュ
「時の風」廣岡洋子
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