五木寛之の『人間の運命』という本を読んだ。小説ではなく、運命について語った一冊である。
少年の頃、両親と共に渡った朝鮮半島で終戦を向え、混乱の中で帰国。飢えと寒さとに苦しめられながら、ソ連兵と北朝鮮兵の目を盗んで脱出。途中で逃避行に足手まといとなる2歳の妹を置き去りにしようとする。そんな強烈な原体験を持つ五木寛之の運命論は、ぐっとくるものがある。
印象的だったのは、そんな自らの経験の中で、人生は不条理であるとした中で語られる言葉。生きて帰国できたのは、常に良き行いをしていたものではなく、他人を押し退けた者。トラックの最後のスペースに人を押し退けて乗った人は帰国でき、親切にも譲った人はどうなったかわからない、というところ。
そういえばタイタニック号の悲劇でも似たようなことがあった。沈みゆくタイタニック号に十分な数の救命ボートはなかった。極寒の海でボートに乗れないという事は、すなわち死を意味する。女性と子供を優先させた多くの紳士たちは命を落とし、ある日本人男性はボートに飛び乗って生還し、のちに大いなる批判を浴びた。
順番を譲って死んでいった無名の紳士たちは確かに立派だが、生き残った日本人男性(本人はたまたまタイミング良くスペースが見つかったというような事を確か語っていた)が例え、人を押し退けて乗ったとしてもそれは果たして批判されるべきなのであろうか。法律では、海に落ちて溺れる者が別の者から浮き輪を奪って助かった場合、奪われた者が溺れ死んだとしても罪には問われない(緊急避難の法理)。
法律的には認められていても感情的には難しい。家族としては「どんな事をしてでも」と思うだろうし、幼い子供を抱えていれば、自分としても「どんな事をしてでも」と思うだろう。常日頃「より良く生きたい」と思っているが、「他人を押し退ける」という行為はその中に入っていない。だが、命がかかった場合はどうだろうか。
そんな事態に出会ったとして、理想論から言えばやっぱり人を押し退けるより周りを見回す余裕と冷静な判断力と他人に手を差し伸べられる力とをもった男でありたいと思う。だがもしも本当にそんな事態になってしまったら、理想通りに行動できるか、またそうすべきかどうかはわからない。少なくとも死んで英雄になるよりも、例え非難されようと生きていればきっと後悔よりも多くのものが残るような気がする。そもそも安全な立場にいた他人が非難する事自体間違っているのだが・・・
こんな事を考えられるのも平和な時代に平和な環境下で暮らしていられるからに他ならない。五木寛之少年はきっとそんな事で悩んでいる余裕はなかったであろう。そんな事は机上の空論で終えるのがいいのであって、それに越したことはない。理想の自分はあくまで理想として、そんな男でありたいと思うだけに留める事にしよう。そんな妄想を気楽に楽しめる環境がずっと続いてほしいと、ただ思うのである・・・
【本日の読書】
「1年で駅弁売上を5000万円アップさせたパート主婦が明かす奇跡のサービス」三浦由紀江
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