2020年6月28日日曜日

論語雑感 里仁第四(その24)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子曰。君子欲訥於言。而敏於行。
〔 読み下し 〕
いわく、くんげんとつにして、おこないにびんならんことをほっす。
【訳】
先師がいわれた。――
「君子は、口は不調法でも行いには敏活でありたいと願うものだ」
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 不動産賃貸業をやっていると、夜逃げに遭遇することがある。私自身は業歴5年半ということもあってまだ経験はないが、ベテランの人に聞くとやはりそういう経験はあるそうである。そういう時は、まだ「もぬけのから」であればいいが、荷物を残されると厄介なのだという。それは、荷物それ自体は逃げたとは言え個人の所有物であり、勝手に処分はできない。一定期間保管しておかないといけないのだという。当然、保管コストがかかってくる。

 なんと理不尽なと思う。まさに踏んだり蹴ったりとはこのことだろう。だが、本当にそうであろうかと思う。もし、私がそういう現場に遭遇したら、躊躇なく処分するだろうと思う。後から所有者が現れて、「返せ」と言ってきた場合どうするか。返せなければ賠償責任を負うというのが保管しなければならないという理由。しかし、その場合、逆に保管料等を請求すればいいだけの話ではないかと思う(大きな声では言えないが)。

 そもそも夜逃げするような人はお金を持っていない。家賃も当然滞納しているはず。そんな人が保管コスト滞納家賃+遅延損害金+ルームクリーニング費用+修繕費等々を耳を揃えて返せるわけがない。そう考えると、理屈の上では保管しなければならないが、「現実的には」不要という回答が導き出せる。なんでもこの「現実的に」考えるということは大事である。

 よくいろいろなアイデアを思いつく人はいるが、大事なのはそのアイデアが「現実的」かということ。会社でも今後の事業展開を巡って議論を交わすことがある。最近ではいろいろな本も出ているし、カタカナの経営用語が飛び交うことも多い。そういう理論を知っていることは大事であるが、それよりも何よりも「それが現実に実行できるかどうか」がもっと大事である。当然ながら、実行できないアイデアなど机上の空論に過ぎない。

 アイデアももちろん大事である。経営上の様々な理論に精通していることも邪魔にはならない。しかし、大事なのはそれをどうやって具体化していくのかという「実行プラン」である。「誰が」、「どうやって」やっていくのか。それが具体化できないと、優れたアイデアも絵に描いた餅になってしまう。それはビジネスでも町内会でも仲間内でも同じことである。

 孔子はリーダーは実行力が大事と言いたいのだろう。それはそれで同感である。ただ、リーダーには言葉による実行力もまた大事である。言葉によって励まし、鼓舞していくということは、リーダーとしての力量の1つだろう。だから「口が不調法」というのはあまりよろしくない。それは時に、みんなのやる気を奪ったりすることにもつながる。せっかく思い切って提案しても、「やってみれば」と興味なさそうにしていたら提案した者もがっかりするかもしれない。

 「黙して語らず」というのは、一昔前の高倉健全盛時代の男の価値観かもしれない。今はチャンネルをひねればどこにでも芸人が出ていて面白おかしく喋りまくっている。それは1つの才能だと思うし、悪くはない。喋れればそれに越したことはないが、うまく喋れなくても「言語化」できれば問題はない。言語化できさえすれば、それで意思は十分に伝わる。「口は不調法」が単にうまく喋れないということであればいいが、言語化できないとなるとそれはやっぱりまずいことになる。

 現代のリーダーは、思いを言語化できて、それを実行プランに落とし込めることが何より大事だということになる。ビジネスの現場では特にそうであろう。「君子欲訥於言。而敏於行。」はそのように解釈したいと思うのである・・・


【今週の読書】
  



2020年6月24日水曜日

断られる理由

 仕事で請負契約を受注すべく、ネットで募集している。同じ目的の業者が多数登録し、受注を競う相見積もりのサイトである。委託者はサイトを通じて各社から提案を受け、その中から最適な業者を選び契約をするのである。当社もなんとか契約件数を増やすべく頑張っているものの、これがなかなか受注を取れない。金額ももちろんあるだろうが、それだけとも思えない。あれこれチャレンジしているものの、成果は芳しくない。「何でダメなんだろうか」と思い悩む日々である。

 受注を取れないのは仕方がない。各社とも切磋琢磨する中で、それぞれがベストを尽くしているわけである。それは仕方がないものの、どうにもやり切れないのが、「断られる理由」がわからないことである。わかればそれを改善することで次回に立ち向かえる。わからなければまた同じ問題を抱えたまま提案をし、また断られるかもしれない。せめて理由だけでも教えていただけないかと、お断りをいただいた後に問い合わせてみるも、回答していただけることはない。

 そう言えばその昔、女性にはあまりモテない方であった。何度か気持ちを告白したことはあったが、断られた経験の方が多い。こちらも適当に数打てばの理屈で口説いているわけではなく、真剣勝負に行っての結果なのでかなり傷ついたものである。今でも私の心には何針も縫った後がある。その時も、「何でダメなの?」という気持ちがあった。聞いたけど当然、答えてはくれない。やっぱり「なぜ?」がしばらく心の中でリフレインしていたものである。

 なぜ、ダメな理由を教えてくれないのだろうか。女性の場合は相手を傷つけないようにという配慮があるかもしれない。「私、イケメンが好きなの」と言われればショックを受けるだろう。「お金持ちがいいの」と言われればまだ諦めもつく。「優しい人が好き」と言われれば、「俺、優しくないかな」と疑問に思うだろう。それにたぶん、言葉にできない微妙な感情もあるかもしれない。逆の立場に立てば、誰とでも付き合うというわけでもないし、やっぱり「付き合って」と言われても付き合いたくない女性はいる。

 「私、優しい人が好き」と言われて、ではと一生懸命人に優しくしても、それで好きになってもらえることはまずないだろう。理由も1つとは限らない。それはささいなことかもしれない。食べ方が汚いとか、ゴミをポイ捨てしたとか、そんな印象の悪さが重なったのかもしれない。逆の立場に立って考えてみるというのは、1つのヒントになるかもしれない。男女間の関係に限って言えば、断られるのに明確な理由などなく、「何となく」が大半なのかもしれない。

 翻ってビジネスに当てはめてみると、意外に好き嫌いの要素が影響する部分はあると思う。たとえば会社であるサービスをやはり相見積もりで導入したが、価格的には横一線であった。最終的にある一社に決めたが、その決め手は担当者の人柄であった。一生懸命やっている姿勢が何よりもいいなと思ったからである。案外、そんな理由だったりするのかもしれない。ただ、我が社で募集している請負契約はすべてネットベースなので担当者の人柄が入り込む余地はない。それが良いのか悪いのか。

 あまり安請け合いしても、疲弊していくだけ。とは言え、取れなければそもそもゼロで収益に貢献しない。次こそはとまた決意を新たにするだけである。そう言えば、振られる理由がわからずもがいていた頃、知らず知らずのうちに心が磨かれていったように思う。自分で言うのも何だが、そんな経験を経て以前よりは寛容な人間になっている気がする。我が社のサービスも随分、改善されている。そういう意味では、わからないなりに受け入れられるべく努力をするということは、自分自身にとってもいいのかもしれない。

 断られる理由はわからないままであるが、「めげず、へこたれず、諦めず」で努力を続けたいと思うのである・・・


PixourceによるPixabayからの画像 
【本日の読書】
 




2020年6月21日日曜日

ノールールというルール

 週末の楽しみにしている映画鑑賞だが、先日『無限の住人』を観た。原作の漫画が面白く、となれば映画化されたのも観てみたいと思った次第である。物語の舞台は江戸時代。浅野道場という剣術の道場に道場破りが現れる。逸刀流という流派を名乗る集団で、自らの流派で統一を目指すべく、それに従わない各流派の道場を潰しているのである。浅野道場も道場主が殺され、その妻もつれさられ、娘が復讐に出るというストーリー。ストーリーはともかく、ここで雑感アンテナに引っ掛かったのは逸刀流のコンセプト。

 剣術の流派ではあるものの、その唱えるところは徹底した勝利。そのためには手段を問わないというもの。普通の道場には「礼に始まり礼に終わる」的な作法や教えがあって、そこで学ぶ者はそれを守らなければならない。その根底に流れるのは、「正々堂々」の精神であり、修行を通じて精神の修養を図るものであったりする。ただ勝てばいいというものではなく、「正しく勝つ」ことが大事で、卑怯な振る舞いをして(流派の教えに背いて)勝つなどもっての外である。となると、逸刀流の考え方など邪道であり、受け入れられるわけがない。両者は絶対に歩み寄れないだろう。

 そもそも剣術は、武士の戦いの中から生まれたもの。戦場で多くの敵の首を取った猛者が尊敬され、「教えてくれ」という流れになったであろうことは想像に難くない。江戸の平和な時代になれば、道場を開いて教えようというのも当然の流れであり、となると練習方法が整備され、学ぶ前の心構えとして礼が重視されるようになっていったのだろう。まさか道場で殺し合いをするわけにもいかないので、公平を期すために一定のルールも整備される。いつしか殺し合いの技術という感覚は薄れ、スポーツ感覚になっていく。

 今の柔道も明治の初めに嘉納治五郎という人がルールを整備して確立したもののようである。当時は流派もいろいろとあって、そのうちの一部がブラジルに伝わりブラジリアン柔術になったという。これも元を正せば、素手による格闘術であったのだろうと思われるが、いつしかスポーツになっているわけである。さらに「柔よく剛を制する」精神が特徴だったはずの柔道は、国際化により体重制やカラー道着が導入されたりしている。柔道以外にも空手や合気道なども似たようなものだろう。

 格闘技も様々である。ボクシングにキックボクシング、カンフーもあればレスリングやサンボ等、世界には様々な格闘技がある。そうすると、必然的に出てくるのは、「一体何が一番強いのか」という疑問。これを大々的に唱えてショーアップしたのがアントニオ猪木。「異種格闘技戦」を展開し、「プロレスこそが最強」と謳ったのである。しかしながらその実態は怪しげなもの。猪木vsアリ戦はガチンコにやったらしいが、あとはそのように見せていただけのものが多かったようである。そして出てくるのがやはり「ノールール」系。

 総合格闘技と称して、一時期大晦日に紅白を向こうに回して盛り上がったものである。やっぱり行き着くところは、「逸刀流」。とにかく勝てば官軍という考え方である。実は極めてマイナーであるが、日本にも「骨法」という道場があって、これは創始者が古来から伝わる骨法に己の喧嘩術をブレンドしたもので、「金的攻撃あり」の実践的喧嘩芸と謳っていた。体験入門したことがあるが(結局、仕事の片手間では続けられなかった)、なかなか刺激的な発想である。「喧嘩に使ったら破門」なんてエセ道場よりはるかにいいと思ったものである。

 勝つことだけを考えれば、こうした「ノールール」系が一番だろうし、だからどうしてもこういう考え方はどこにでも出てくる。柔道も古流柔術の方がより実践的だったらしいが(だから総合格闘技でブラジリアン柔術出身者が強い)、精神修養的要素が強い柔道が日本では主流になっている。ルール(流派)を作っては、ノールールが現れるというのは、格闘系では起こるべくして起こるムーブメントなのかもしれない。茶道や華道にはこういうことはないだろう。ではノールールが悪いのかというと、そうでもないと思う。それは本質論だと思うからである。

 格闘技の目的は何かと言えば、それは相手を倒すこと。これが本質である。それがいつの間にか本質を外れてルールを守ることが重視されるようになっていく。柔道なども礼が重視され、「有効」や「技あり」なんかで勝負が決まるところは、もう完全なスポーツで「格闘技」の要素は薄い。ボクシングなどもみなそうである。ノールール系であるはずだった総合格闘技すら例外ではない。ルールができてスポーツになっている。それが悪いとは言わない。この平和な時代にそうしたスポーツ化した格闘技をやるにはそれが必要であるからである。

 ルールがあればそれは人を安心させる。ルールは人間が安心して生きる環境を提供する。ルールを破壊する者は、言ってみればその安心を破壊する者であり、安心したい人間にとっては破壊者は忌み嫌う対象となる。逸刀流もその考え方はわからなくもないが、自分達だけでやっていれば良かったのにと思う。そして、復讐を誓い、不死の主人公万次と行動する凛も投げナイフを得意とし、道場主の娘ながら勝つために(浅野道場の)ルールを外れていくのもまた興味深い流れであった。

 よくよく考えてみれば、ルールとは他人との関わり合いの中で作られていくもの。1人であればルールはいらないわけで、ノールールも他人との関わり合いが出てくればルールが生じるということであろう。なんでもありの逸刀流だが、繁栄していればやがて多くの門下生を集め、その結果、作法が生まれルールが生まれ、やがて1つの流派として確立されていったのかもしれない。映画もそれなりに面白かったが、そんなことをあれこれ考えてみたのである・・・


Esteban Arboleda BermudezによるPixabayからの画像

【本日の読書】




2020年6月17日水曜日

いまの子供たちと生きる

まだ30代の若い知人がいる。子供も小学校入学前のかわいい盛りである。話を聞いていて、自分の子供たちの小さい頃を思い出して羨ましく思う。よく「子供は3歳までに一生分の親孝行をする」と言われるが、それは真実だと自分の経験を通して思う。私は親世代に比べれば、子育てに参加した方だと思う。おむつも代えたし、母乳を与える以外の時はミルクを作って飲ませたり、夜中に泣いた時はあやしたり。父親の気楽さか、それを面倒だとか嫌だとかは思わなかった。

歩くようになればなったでかわいいし、しゃべるようになればなったでぎこちない会話でさえ愛おしく思った。だっこをせがまれれば疲れていても嬉しかったし、むしろ疲れが癒される気がした。家に帰るのが楽しみで、家に帰る足取りが疲れて重いなどということはなかったと思う。動物園やディズニーランド、水族館や博物館等、休みともなればあちこち出掛けたし、子供が喜びそうなものなら積極的に参加した。家族旅行も味覚狩りを中心によく行ったものである。

子供が成長すれば、そんな家族のあり方も少しずつ変わっていく。中学・高校ともなれば、子供単独での行動が増えてくる。家族旅行に行こうにも、「部活」などがあって、子供との予定が合わなくなる。家族そろって出かけることも次第次第に少なくなってくる。私など、ディズニーランドへ最後に行ったのはいつだろうと思い出してみるが、もう5年以上行っていない。一緒に行くような友達もいないし、子供がいなくなると大人は(少なくとも男は)、たちまち行く機会を失ってしまう。次の機会があるとしたら、孫ができてからのような気がする。

考えてみれば、小さな子供がいるだけで、大人の男の行動範囲は格段に広がる。ディズニーランドへも行けるし、遊園地にも行ける。夏のプールも動物園も水族館も鉄道博物館にも迷わず行ける。今は行こうとしたら人目を気にしない勇気が必要だ。1回くらいは何とか出来ても、最低でも半年に1回のペースでディズニーランドに行くなんてことはできないだろう。「子供が成長したら夫婦2人で新婚時代に戻って・・・」なんてことは若い頃に抱く幻想だったと気がついた現在、随分と行けなくなった場所が多くなってしまったものである。

できなくなったこともまた多い。その最たるものはスキンシップだ。娘も身長は160㎝を超えているし、息子に至っては私とほぼ背丈は一緒だ(体重はまだ20㎏ほど勝っている!)。とてもではないが、もう「抱っこ」はできない。今でも娘と近所を散歩した時、「だぁー(抱っこ)」と言って、足元にしがみついてきた姿を覚えている。軽々と抱え上げると、小さな手を首に巻きつけてきたが、もう今では不可能である。ディズニーランドのパレード見学では肩車をしてあげたが、それももうできない。一緒に風呂に入ることも、少なくとも娘とはもうない。

息子が小学生の頃はよくキャッチボールをやったものである。自分用にもグローブを買い、軟式ボールも買って2人で向かい合った。始めは近い距離で、おっかなびっくりキャッチしていたが、やがて力強いボールを投げるようになった。そして所属するチームの練習が忙しくなると、もうキャッチボールの相手は必要なくなってしまった。今でも部屋の片隅にグローブが埃を被っているが、またキャッチボールしてみたいと思わないことはない。まぁ、頼めば少しは相手してくれるかもしれないが、昔のように目を輝かせてくれることはない気がする。

子供も大きくなれば楽しみがなくなるのかと言えば、それは「そういう部分がある」ということだろうと思う。娘は成長するとパパが嫌いになるとよく言われるが、幸い我が家ではその傾向はない。話かければ会話は成立するし、私の実家へ行く時は、私と2人でも嫌がらずについてくる。母娘の緊密さに比べれば足元にも及ばないが、それでも普通レベルの父娘の関係くらいは構築できている。家のパソコンが具合悪くなれば、頼られるのは当然私である。

子供も当然ながら成長して親の手元を離れて行く。いつまでも小さいままではいられないのはよくわかるし、成長していくのは喜ばしいことである。大人に近づくに従い、親の影響力も弱くなっていく。ディズニーランドへ行くにも友達同士が良くて、親と行きたいとは思わないだろう。私がそうであったように。寂しいことであるが、それは致し方ない。「小さい頃の方が良かった」と思うのも事実であるが、成長した今の姿もまた良しと思うようにしたいと思う。19歳の娘と15歳の息子と接することができるのは、今だけなのだから。

娘とも息子ともいずれは大人同士の関係となるだろう。いずれ独立して別居でもすれば、会うのは年に何回かという状況になるかもしれない。だが、子供は大人になっても親からすれば永遠に子供である。小さい頃も良かったが、成長した現在は現在で少しは大人の話もできるようになってきて、頼もしく思うことしばしばである。息子は、私があまり持ち合わせていない社交性を持ち合わせていて頼もしく思える時がある。中学3年という今の息子に接することができるのは今だけと思うと、今の姿も貴重なのだと改めて思う。たぶん、5年後くらいには、この文章を懐かしく思いながら読み返しているかもしれない。

 知人には会うたびに、「今しかないよ」と語っている。仕事も大変そうだし、頑張りどころだと思うが、今この瞬間の子供と接するのも今だけなのである。それはまだ幼い子供を持つ知人に対する経験者からのアドバイスであり、それよりも大きく成長した子供たちを持つ自分への戒めでもある。映画『いまを生きる』ではないが、今の子供たちと今を生きたいと思うのである・・・




【本日の読書】
 



2020年6月14日日曜日

論語雑感 里仁第四(その23)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子曰。以約失之者鮮矣。
〔 読み下し 〕
いわく、やくもっこれうしなものすくなし。
【訳】
先師がいわれた。――
「ひかえ目にしていてしくじる人は少ない」
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 日頃からコミュニケーションて難しいと実感している。それは親しいはずの親兄弟、夫婦でもそうである。ましてや他人をやというところである。丁寧に説明したつもりでも誤解される。同じものを見ても楽観的な見方と悲観的な見方がある。ちょっとした言葉尻を捉えて余計な想像をされてしまう。誤解が誤解を呼ぶ。そうしたことに疲れてくると、余計なことは「言わぬが花」となる。「沈黙は金」という諺もこんな背景があると思う。

 子供が成長過程で、何事につけ「なんで?」と聞いてくることはよくある。大人にとっては煩わしい限り。大人になっても同様で、いちいち説明しないといけないのは煩わしい限り。会社組織ともなれば、「黙って言われた通りにやれ」と言いたくなるのが関の山。勢い、黙って言われた通りに動く者は「愛い奴」と上司の覚えもめでたくなる。そうなると、目端の利く者はイエスマンに転身する。かくして「言われたことしかやらない」サラリーマンが出来上がる。

 「三歩下がって師の影踏まず」という言葉がある通り、日本でも「謙譲」は美徳である。「約を以て之を失う者は鮮し」は日本でも真実である。自分が上司の立場に立てば、なんでも「ハイ」と従う者はかわいいし、使いやすいいい部下である。人間関係を円滑に進めたいと思うのであれば、自分を抑え相手を立てていればまず間違いはないと思う。ただ、本当にそれでいいのかと言うと、個人的には「否」である。「良い子とは親にとって良い子」というのもまた真実だと思うからである。

 人間は誰でも感情があり、考えがある。カツ丼が好きな者もいればカレーの方が好きな者もいる。東京から大阪へ行くのに新幹線がいいと言う人もいれば飛行機がいいと言う人もいる。好みの違い、考え方の違いはそれぞれあって何が正しいということはない。「なんで?」「なんで?」と聞かれれば確かに煩わしいが、答えた時の反応や子供の成長につながるという想いがそれに勝る。煩わしくとも意見は言い合った方が、相手の腹がわかって安心できる。

 「控え目」とはどういう態度を指すのかまでは明らかになっていないが、意見を言い合って、その上で相手に譲るというのであればいいだろうと思う。「以心伝心」「阿吽の呼吸」というのもお互いに理解しあっていれば可能だが、そうでなければ「言わなくてもわかるでしょう」というのは禁物である。もちろん、「コーヒーを出して」と言われれば、砂糖とミルクも一緒に出すのは、日本人同士であれば「言わなくてもわかる」ことではある。

 「控え目」が、「常に自分の意見を明らかにしながらそれに固執せず、柔軟に相手に合わせて対応する」ということであれば、それは理想的だろうと思う。自分と異なる意見というのは、自分が気づかなかった視点であり、それに気づかせてくれただけでもありがたいものである。もちろん、それを煩わしいと考えるのも考え方の1つであるが、自分は言われたいタイプである。人の考えなどわかるはずもないし、忖度もしたくない。その都度考えを言ってもらった方がありがたい。

 ビジネスでもプライベートでも、控え目にしていてしくじることは確かに少ないことかもしれない。ただ、教訓としては消極的すぎるように思う。控え目もほどほどにしないと、「言われたことだけやっていればとりあえず怒られることもない」という成長につながらない考え方を育成しかねない。そういう人間は頼りにはされないことは事実であり、そうならないためには「一歩下がる」くらいにとどめておいた方がいいと思う。少なくとも、子供達に勧めるならそんな「控え目」にしたいと思うのである・・・






【今週の読書】
 



2020年6月11日木曜日

受験は3回まで

よく国家試験を何年にもわたって受験している(なかなか受からない)という話を聞く。その昔は司法試験浪人の話などはよく聞いたものである。何年も受け続けるというのは、根気のいることだと思う。私の場合、せいぜいが3年くらいだと思う。これまでに大学受験で2回目、宅建でも2回目、昨年取得したマンション管理士の資格は3回目でなんとか目的を達成したが、これまで4回以上チャレンジした経験はない。それはその前に受かっているということもあるが、それ以上無駄なことはしたくないという考えもある。

宅建でも受験10年目などという話を聞くが、私の場合、そこまでの根性はない。そもそもであるが、当然1回で合格を目指して受験するわけであるが、それなりに過去問を解いたり、傾向と対策を押さえたりして臨むわけである。そこでダメとなった場合、「ではどうすれば受かるのか」と考え、それを実行する。それが適切に分析できて、対応が取れれば2回目で合格できるわけである。

不動産業界に転職して宅建が必要となった時も同様。実は銀行に就職してすぐの年に自己研鑽で宅建を受けたことがあるが(残念ながら不合格)、なんとなく自己流で行けるかと思って教材をそろえてチャレンジ。ところが意に反して不合格。社内の合格者に聞いたところ、みんな学校に行ったとのこと。大学受験の宅浪時から自己流を貫いてきたが、背に腹は代えられず、また問題も予想外に難しかったので、通信講座を利用した。これが正解。2年目も独学にこだわっていたら多分落ちていたと思う。

この経験を基にマンション管理士の試験は最初から通信講座を使ったが、最初の年は不合格。自分なりに敗因を分析して2回目のチャレンジをしたがまたも不合格。この時点でほぼ9割くらいやるべきことはやり尽くしたと思っていたので、これ以上どうすればよいかわからない状態だった。それでも残り1割を埋めて3回目のチャレンジに臨んだが、これで落ちたらもうやめようと決意し、周囲にもそう公言していた。それ以上続けても受かるとは思えなかったのである。

根性がないというよりも、打つ手のない負ける戦に臨むのが嫌だったというのもある。毎日勉強するのにも疲れたし、勝てる見込みのないままダラダラと惰性で受験するのは性に合わない。もちろん、3回目で次なら勝てそうだという光明が見えたのなら話は別であるが、そうでなければやめるだろう。というか、3回かかっても受からないならもうダメなのである。「根性だけで合格できるなら世話はない」のである。

少なくともチャレンジが3回目になった時、それまでの2回の敗戦理由をよく分析できているのだろうかと思う。
「なぜダメだったのか」「どうすれば受かるのか」
その最初の分析が何より重要である。「ああダメだったか」とまた同じように勉強して同じように受験すれば、当然同じように不合格になる。そして敗因の分析など2回受験すればやり尽くすように思う。毎回毎回敗因が異なるというのなら、それはそもそも敗因分析が不十分だということ。合格者にアドバイスをもらうとか、学校に通う(そこでアドバイスを受ける)とか、何らかの手があるはずで、それをやっていれば3回でやり尽くすはずである。

 世の中にはどんな試験でも必ず受かるというものでもない。受験生みんなが東大に入れるわけではないし、みんなが司法試験に受かるわけでもない。自分は果たして受かるのかどうかの見極めは必要である。それが私は「受験3回」だと思う。「3回受験して受からないならやめた方が良い」と私は考える。「受かるかもしれない」と考えてダラダラ何回も受験を繰り返す人については、それは個人の自由であるが、とてもリスペクトはできない。そもそも徹底的にやっていれば、疲弊して続けられなくなるはず。ダラダラ続けられるというのは、徹底的に「やっていない証拠」に他ならない。

 たとえるなら、資格試験の類は短距離走だと思う。当然、「全力疾走」が必要であり、入賞できるのは上位何人かである。マラソンのペースでは走り続けることはできるだろうが、入賞はできない。逆に全力疾走していれば何回も続けて走れない。何回も走れるということは全力疾走していない証であり、それゆえに受かるはずもない。2回目の大学受験の時も3回目のマンション管理士の試験の時も、「これ以上はもう無理」だと思うところまでやった。だから落ちたらすっぱり諦めようと思ったし、それで未練など残らなかっただろう。

 何年も受験をダラダラし続ける人は、受験そのものが趣味だと言われればそれは好き好きだからとやかくは言わないが、変わった趣味だなと思うだけである。まぁ、「101回目のプロポーズ」の例もあるから粘ることも必要かもしれない。自分自身、恋愛経験では粘り切れなくて大きな失敗をしたのも事実である。あくまでも「試験に限って」ということに限定した意見としたいと思うのである・・・


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【本日の読書】
 




2020年6月7日日曜日

依存症について

 最近はなんでもそれらしい名前をつけて病気にしてしまう傾向がある。なんでも病気ということにしてしまえば説明がしやすいという気持ちがあるのではないかと思うが、そういう傾向にはなんとなく抵抗感がある。「鬱は病気ではない」と考える私にとっては、もう1つ病気とは言えないと思うものが「依存症」である。「アルコール依存症」とか「ギャンブル依存症」とかいろいろとあるが、この「依存症」も実に怪しい「病気」である。

 依存症には、「行為(ギャンブル、買い物、ゲーム等)」「物質(アルコール、ドラッグ、タバコ等)」「人間関係(異性、DV、共存等)」という大まかな種類があるらしい。どれも「ダメだと思ってもやめられない」「やめられない、止まらない」という症状が出るものであるが、薬物等の禁断症状の場合はまだわかるが、そうでない精神的なものは病気とは言うのには抵抗がある (もっとも何でも「お前ビョーキだよ」という種類の「病気」ならわかる)

というのも、人間誰しも「やめられない、止まらない」はあるだろう。カッパえびせんではないが、いわゆる「ハマる」というヤツである。私も「ハマる」というほどではないが、ちょっとした隙間時間があれば、パズルや最近ではソリティアなどをちょくちょくやっている。なぜと聞かれれば「何となくやらずにはいられない」という程度だろう。今はコロナ自粛で活動停止中だが、ラグビーもその1つであり、今は禁断症状が出てモヤモヤが絶えない。解禁になったら何はさておきグラウンドへ直行するだろう。

週末の深夜は趣味の映画鑑賞だが、コロナ自粛で観始めたのがNetflixなどの海外ヒーローモノドラマ。「アロー」とか「ゴッサム」「ジェシカ・ジョーンズ」「ルーク・ケイジ」「フラッシュ」「タイタンズ」「デアデビル」と毎日ローテーションを組んで観ている。これも「やめられない、止まらない」である。そのほかにも東野圭吾や池井戸潤の作品とか読み始めたら止まらないという本もある。みんな依存症と言われれば、世の中の人はすべて依存症になるのではないだろうか。

もっとも、そんな可愛いものではなく、「寝食を忘れて」という激しい程度のものもあるだろう。ゲームに夢中になり、周りの制止も聞かずに、学校へもアルバイトにもいかなくなって一日中部屋にこもってゲームをしていたら、それは誰でも病気だと思うだろう。だが、『奇跡のリンゴ』の木村秋則さんの例はどうだろうか。無農薬のりんご作りに熱狂し、家族の困窮もよそに研究を重ねた姿はほとんど病気(狂気)とも言える。日本で最初にインスタントラーメンを開発した安藤百福さんとか、似たような例は枚挙にいとまがない。

バカと天才は紙一重とはよく言うが、まさにそれは紙一重というより同じだと思う。対象がゲームかリンゴがインスタントラーメンかの違いだけだろう。もしもゲームが高じてeスポーツでオリンピックに出場ということになったら、一転して依存症のレッテルは剥がされるだろう。実家の父親も一度始めると何事にも「凝る」性分で、昔からいろいろと手を出しては道具を買い揃えていたのを覚えている。今はそれが写真に向かっている。仕事もその1つで、だからこそ腕のいい職人になれたのだろうと思う。

人は誰でもそういう性質があるのだと思う。歴史を振り返ってみても、画期的な発明や発見をした人は、たぶん人から見たらほとんどビョーキとも言える熱狂を持っていたのではないかと思う。宇宙に関しては性能の悪い望遠鏡くらいしかなかった時代に星の運動を毎日記録し、そこから地動説や太陽系の仕組みを明らかにしたわけで、普通に生活をしていたら無理だろうと思う。アインシュタインの言う「99%の努力」とはそんな依存症的な熱狂だと思う。

ダメだと思っても「やめられない」のが人間であり、それは病気などではないだろう。明らかに「普通」と違う状態を指して何でも「病気」としてしまうのはいかがなものかと思わざるを得ない。依存症とい言われる人は、「やめよう」と思ってもその意思が続かないのであり、だからやってしまうのだろう。意思が続かないのもまた人間の性。だからいつになっても英語とダイエットビジネスは耐えることなく繁栄するわけである。

病気と分類できれば、薬を飲ませて治療するということになるが、そんなもともと病気でないものが医者に治せるわけはないと思う。何でも自分たちの理解できないものに病名をつけてしまうのは、病気ということにして安心したいのではないかと思わざるを得ない。「病気」と言われれば、人は誰でも「仕方がない」と思うもの。そんな言い訳に利用されているような気がしてならい。

 では依存症と呼ばれる症状をどうしたらいいのかと問われれば答えられない。あえて言えば、無理やり引き離してしばらくはできない状態にでもするしかない。もしも我が息子がゲーム依存症にでもなって、一日中部屋にこもってゲームをしているような状態で、私が本気でやめさせようと思ったら、東京電力に電話して電気の契約を切ってしまうだろう。電気のない暮らしは考えられないが、本気になればそのくらいはやるだろう。まぁ、今のところそんなことになる気配はないから安心ではある。ただ、それを問題だと思うかどうかはまた別の問題である。

 仮に問題だとしても自分の価値観で「病気だ」と決めつけるのではなく、「病気ではない」という前提で考えることが解決のための第一歩だと思うのである・・・


Alina KuptsovaによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
  




2020年6月3日水曜日

誕生日に思う

6月は誕生月である。毎年元旦と誕生日にはそれぞれ1年を振り返り、そして次の1年のことを考えるようにしている。今年は誕生日当日に健康診断を受診した。毎年健康診断を受診しているが、社員僅か10名の中小企業でも会社負担で健康診断を実施できているのはなかなかいいと思う。国の制度もあるのだろうが、大企業では当たり前の制度でも中小企業だと総務担当者がきちんとしていないとできないだろうと思う。

そういう人でも市区町村の制度もあるようだから、健康診断を受けられないという問題はないだろうと思う。ただし、やはり同じ建物の中に健康管理センターがあって、医師が常駐し、仕事の合間にエレベーターで移動して健康診断を受けられるという点では、やはり大企業である。中小企業では、わざわざ徒歩15分先の病院まで移動しないといけない。当然なことに、人が増えれば仕事も分散、専門化できるわけであり、福利厚生も手厚くなる。そういう意味では、やはり大企業は恵まれている。

そんな事を考えたのも、やはり健康意識である。今年初めに会社の同僚が亡くなったことも大きい。具合が悪いことはずっと傍で見ていたからわかっていたが、検査入院で入院してそのまま亡くなってしまったのはちょっとショッキングであった。人間はやはり死んでしまうとそこですべてが終わってしまう。まだ住宅ローンも残っているし、子供たちも学生だしという身では、どうしても死ぬわけにはいかない。そう考えると、よけい健康意識は強くなる。

私はもともと健康で、学校も会社も風邪等で休んだことがない(早退はある)。そういう身だと健康は常に当たり前の前提であり、わざわざ意識することもない。だからこそ、これからは気をつけないといけないと考えている。週末の楽しみの深夜の映画も、お菓子をつまみにバーボンを飲むというのもあまり健康的ではない。そう自覚はするが、やめるのも難しい。健康診断の数値は、許容範囲内のものでも上限付近だったりとじわじわ悪化しているから、気を引き締めないといけないだろう。

ノーリスク・ノーリターンは経済の基本的な原則である。だから銀行預金は金利が安い。世の中もそれなりに収入を増やそうとすれば、リスクまたはそれに代わる負担が増えるのも当然。仕事も収入が増えるにしたがって責任は重くなるし、プレッシャーも増える。中小企業とは言え、それなりの立場に立てば責任も重くなる。会社も順調とはいえず、薄氷の綱渡りが続く。この頃、夜中に目が覚めてしまうこともある。逃げ出したくなる時もある。されど、ノーリスク・ノーリターン。

昨年、『破天荒フェニックス-オンデーズ再生物語-』という本を読んだが、すべてを賭けてオンデーズの再生に取り組んだ社長の物語だが、こんな芸当、とても真似できないと思った。もちろん、器が違うのはあるのだが、精神的なプレッシャーの凄さが想像できたからである。立っていても不安、座っていても不安。まさに「居ても立ってもいられない」という言葉通りの心境がよく理解できる。若くないとできないし、自分は真似したくない。けれど、それなりのプレッシャーはかかってくる。

コロナの影響でグラウンドが利用できず、ラグビーの方も活動停止状態。週末に体を動かせないもどかしさは限りない。飲みに行くのも憚られる状況が続いているが、つくづく普通通りに過ごせるありがたさが身に染みる。人間、失ってみて気付くことが多いが、改めて身の回りに溢れる幸せを数えてみたくなる。プレッシャーはあっても、仕事があることは何よりもありがたい。ないよりはプレッシャー付きでもあった方がいい。そんな当然のことにもきちんと気付いていたい。

誕生日を迎え、確実に人生の折り返し地点は過ぎているだろうから、これから生きていられる時間は、確実に今まで生きてきた時間よりも短い。世界は私が死んでも変わらず続いていく。されども周りにいる人たちには何らかの影響はある。生きている時は当然だが、死んで迷惑をかけたくはない。まだまだ生きていたいし、自分の欲ばかりではなく生きていかないといけない。生きていることに感謝し、プレッシャーにすら感謝し、「我がものと思えば軽し傘の雪」の精神でいかないといけないと思う。

 毎度のことながら、良き夫、良き父親、良き息子、良き友、良き同僚であるように、また一年心掛けていきたいと思うのである・・・




【本日の読書】