2020年6月21日日曜日

ノールールというルール

 週末の楽しみにしている映画鑑賞だが、先日『無限の住人』を観た。原作の漫画が面白く、となれば映画化されたのも観てみたいと思った次第である。物語の舞台は江戸時代。浅野道場という剣術の道場に道場破りが現れる。逸刀流という流派を名乗る集団で、自らの流派で統一を目指すべく、それに従わない各流派の道場を潰しているのである。浅野道場も道場主が殺され、その妻もつれさられ、娘が復讐に出るというストーリー。ストーリーはともかく、ここで雑感アンテナに引っ掛かったのは逸刀流のコンセプト。

 剣術の流派ではあるものの、その唱えるところは徹底した勝利。そのためには手段を問わないというもの。普通の道場には「礼に始まり礼に終わる」的な作法や教えがあって、そこで学ぶ者はそれを守らなければならない。その根底に流れるのは、「正々堂々」の精神であり、修行を通じて精神の修養を図るものであったりする。ただ勝てばいいというものではなく、「正しく勝つ」ことが大事で、卑怯な振る舞いをして(流派の教えに背いて)勝つなどもっての外である。となると、逸刀流の考え方など邪道であり、受け入れられるわけがない。両者は絶対に歩み寄れないだろう。

 そもそも剣術は、武士の戦いの中から生まれたもの。戦場で多くの敵の首を取った猛者が尊敬され、「教えてくれ」という流れになったであろうことは想像に難くない。江戸の平和な時代になれば、道場を開いて教えようというのも当然の流れであり、となると練習方法が整備され、学ぶ前の心構えとして礼が重視されるようになっていったのだろう。まさか道場で殺し合いをするわけにもいかないので、公平を期すために一定のルールも整備される。いつしか殺し合いの技術という感覚は薄れ、スポーツ感覚になっていく。

 今の柔道も明治の初めに嘉納治五郎という人がルールを整備して確立したもののようである。当時は流派もいろいろとあって、そのうちの一部がブラジルに伝わりブラジリアン柔術になったという。これも元を正せば、素手による格闘術であったのだろうと思われるが、いつしかスポーツになっているわけである。さらに「柔よく剛を制する」精神が特徴だったはずの柔道は、国際化により体重制やカラー道着が導入されたりしている。柔道以外にも空手や合気道なども似たようなものだろう。

 格闘技も様々である。ボクシングにキックボクシング、カンフーもあればレスリングやサンボ等、世界には様々な格闘技がある。そうすると、必然的に出てくるのは、「一体何が一番強いのか」という疑問。これを大々的に唱えてショーアップしたのがアントニオ猪木。「異種格闘技戦」を展開し、「プロレスこそが最強」と謳ったのである。しかしながらその実態は怪しげなもの。猪木vsアリ戦はガチンコにやったらしいが、あとはそのように見せていただけのものが多かったようである。そして出てくるのがやはり「ノールール」系。

 総合格闘技と称して、一時期大晦日に紅白を向こうに回して盛り上がったものである。やっぱり行き着くところは、「逸刀流」。とにかく勝てば官軍という考え方である。実は極めてマイナーであるが、日本にも「骨法」という道場があって、これは創始者が古来から伝わる骨法に己の喧嘩術をブレンドしたもので、「金的攻撃あり」の実践的喧嘩芸と謳っていた。体験入門したことがあるが(結局、仕事の片手間では続けられなかった)、なかなか刺激的な発想である。「喧嘩に使ったら破門」なんてエセ道場よりはるかにいいと思ったものである。

 勝つことだけを考えれば、こうした「ノールール」系が一番だろうし、だからどうしてもこういう考え方はどこにでも出てくる。柔道も古流柔術の方がより実践的だったらしいが(だから総合格闘技でブラジリアン柔術出身者が強い)、精神修養的要素が強い柔道が日本では主流になっている。ルール(流派)を作っては、ノールールが現れるというのは、格闘系では起こるべくして起こるムーブメントなのかもしれない。茶道や華道にはこういうことはないだろう。ではノールールが悪いのかというと、そうでもないと思う。それは本質論だと思うからである。

 格闘技の目的は何かと言えば、それは相手を倒すこと。これが本質である。それがいつの間にか本質を外れてルールを守ることが重視されるようになっていく。柔道なども礼が重視され、「有効」や「技あり」なんかで勝負が決まるところは、もう完全なスポーツで「格闘技」の要素は薄い。ボクシングなどもみなそうである。ノールール系であるはずだった総合格闘技すら例外ではない。ルールができてスポーツになっている。それが悪いとは言わない。この平和な時代にそうしたスポーツ化した格闘技をやるにはそれが必要であるからである。

 ルールがあればそれは人を安心させる。ルールは人間が安心して生きる環境を提供する。ルールを破壊する者は、言ってみればその安心を破壊する者であり、安心したい人間にとっては破壊者は忌み嫌う対象となる。逸刀流もその考え方はわからなくもないが、自分達だけでやっていれば良かったのにと思う。そして、復讐を誓い、不死の主人公万次と行動する凛も投げナイフを得意とし、道場主の娘ながら勝つために(浅野道場の)ルールを外れていくのもまた興味深い流れであった。

 よくよく考えてみれば、ルールとは他人との関わり合いの中で作られていくもの。1人であればルールはいらないわけで、ノールールも他人との関わり合いが出てくればルールが生じるということであろう。なんでもありの逸刀流だが、繁栄していればやがて多くの門下生を集め、その結果、作法が生まれルールが生まれ、やがて1つの流派として確立されていったのかもしれない。映画もそれなりに面白かったが、そんなことをあれこれ考えてみたのである・・・


Esteban Arboleda BermudezによるPixabayからの画像

【本日の読書】




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