2022年8月28日日曜日

新人ですから

  4月に入社した新人は、企業によって異なるところがあると思うが、たいていまず新入社員研修があって、その後実践に投入されるというのが一般的だろうと思う。新人研修の内容は企業によって異なると思うが、我が社の場合、2ヶ月コースと3ヶ月コースと二手に分かれて実施する。それぞれ外部の業者に委託をして行うが、今は助成金もあったりして資金的負担も軽くて済む。この夏、いよいよ新人たちも実践デビューしている。

 それは我が社だけではなく、当然どこの企業もであるのは日々実感するところである。というのも、営業系の電話を受けた時など、相手の感じから「新人だな」と感じられる時がしばしばあるのである。説明がぎこちなかったり(いかにもマニュアル通りに喋っていますと感じられる)、ちょっと突っ込んで質問するとすぐに答えられなかったり、言葉遣いがギクシャクしていたり(舌を噛みそうな敬語を使ったり)といった感じで、こちらもそれとわかるのである。

 その中で、気になる点がある。それはわざわざ自分から「新人です(あるいは新卒ですとか)」と申告するケースである。と言っても、「自己紹介系」であればまだ好感が持てる。「頑張ります!」という力強さが伝わってくるからである。それに対し、「言い訳系」はどうにも気になってしまう。「新人なのでわからないことばかりですけど・・・」という感じで来られるケースである。

 その気持ちはよくわかる。まだ業務に不慣れな中、1人で客先に行く、あるいは電話をかけるわけであり、「どんな人が出てくるのだろう」、「何を言われるだろう」という不安があるのだと思う。だが、「新人だから」と言ってミスしても大目に見てもらえるのは「社内だけ」である。それは、当たり前ではあるが、外部に求めてはいけないものである。外部の人間からしてみれば、電話をかけてきた相手、あるいは訪ねてきた相手が新人であるかどうかなど関係ないのである。

 「新人だからミスしても大目に見てほしい」という気持ちはよくわかる。私もそれを言い訳にした経験がある。あれは銀行に入り、最初に配属された支店でのこと。新人だから外部からかかってきた電話を真っ先に取るのが仕事の一つであったが、ある時支店長宛の電話を取り、支店長に取り継いだ。「○○様からお電話です」と。すると支店長から「何の用?」と問われた。聞いていない。そこで相手に尋ね、それをまた支店長に伝えた。すると「どういう人?」と再質問。ここで側で聞いていた先輩が慌てて私から電話を取り、丁重にお断りして電話を切った。

 ここで教育タイム。曰く、支店長宛の電話は相手と要件を確認して取り継ぐべきものとそうでないものを見分けないといけない。わからなければ支店長に取り継ぐべきか否か尋ねれば良いと。そして次にかかってきたのは僚友店の支店長。支店長をお願いしますと言う僚友店の支店長に、さっそく教わった通りに実践。「どういうご用件ですか?」と素直に尋ねた瞬間、「バカヤロウ」と怒鳴られた。支店長同士の話を何でお前に言うのかと烈火のお叱り。「ヤバい」と思ったが後の祭り。「お前は誰だ」と問われ、思わず「新入行員の○○です」と答えたのである。

 「新入行員の」と枕詞をつけた理由は、「新人だから許してください」という意味であったのは言うまでもない。後で支店長に謝りに行ったら笑って済まされたが、強烈な印象とともにいい勉強になった出来事である。それ以外に、自分から(言い訳の意味で)「新人です」と名乗った覚えはない。否、むしろ「新人だ」と思われたくないという気持ちの方が強かったと思う。それは半分、「舐められたくない」という意地のようなものだったかもしれない。

 そんなことを思い出したのも、つい最近、ある営業マンがきた事による。その営業マンは飛び込みで訪問してきたが、「自分、新人なんでよくわかってないんっすけど」と言いながら自社の説明をし、後日、営業担当から連絡させますと言って帰っていった。そして訪ねてきたのが営業担当者。若い女性であったが、きっちりと説明とセールスをして、そのサービスを試しに利用してみる事になった。そこで雑談タイムになり、最初にきた新人君の話になった時、「新人だから」という言い訳の話になった。するとその女性、「実は私も新人なんです」と。

 これにはこちらもどビックリ。こちらも若いとは思っていたが、てっきり入社数年の人かと思っていたので驚いた。何でも「新人と思われたくない」と考えているとのことであった。考えてみれば同期なのに随分と差があるなと感じてしまった。かたや新人を言い訳にし、かたや新人だと悟られまいとしている。今も既に差があるが、それはまだ小さな差、しかし、この考え方の差は先々に大きな差になると思う。こちらも自然と「新人と思われたくない」と考えて頑張る方を応援したくなる。

 日本電産の永盛会長は、「意識の差は100倍」と語っている。その通りだと思う。新人は、研修が終われば1人前という自覚を持たないといけない。「新人だから」という言い訳は、社内では通じるかもしれないが、だからと言って甘えていてはいけない。外部に対しては、それは言い訳にはならない。そういう「言い訳意識」を持っていては、成長もおぼつかない。「新人だから」という言い訳をしない。我が社の新人たちにもそういう意識を持って欲しいなと思うのである・・・

esudroffによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 


2022年8月24日水曜日

人間性

 現在、前職のT社長とは法廷バトルを展開している。そもそもの発端は、前社長が会社を売却してしまったこと。事前に何の相談もなく、ある朝突然全社員を集めて発表するというやり方であった。退職金はなし(理由は退職金規定がなかったから)、退職時期は2ヶ月後。希望者は知り合いの社長(一応、上場会社)に雇用を了承してもらったから自分で履歴書を持って行ってほしいというもの。当然、大ブーイングである。その後の交渉で、1人あたり退職金50万円を認めたものの、中には勤続20年近い社員もいて、納得感はゼロであった。

 そもそも入社したのは、母高のS先輩の紹介。といってもT社長も同じ母高の先輩で10年来の顔見知りであった。赤字会社であることは承知で銀行から転職した。小さな会社だったが、私には「鶏口となるも牛後となるなかれ」という考えが昔からあったので、「面白そうだ」と大胆にも思ったのである。そして、仕事自体は確かに面白かった。T社長から仕事をほぼ任せてもらえたので、会社の経営はすべて代行して行った。結果、私の入社前に8期のうち6期赤字だったものを6期連続黒字に変えたのである。

 もともとT社長は、親が会社を上場させた成功者であり、そのためいわゆる「金持ちのボンボン」として育つ。親が残した遺産でお金だけは億単位で持っていたが、おっとりしていて経営に関してはほぼ素人であった。その代わりお金に関しては執着心が強く、ゆえにM&Aによって会社を売却し、億単位のお金を手にしたのに8人の社員には150万円の退職金を渋々出すという有様であった。もしも私であれば、億単位のお金を手にするなら、一人当たり0ひとつ多く出すだろうと思う。

 そういう人柄がわからなかったのかと言えば、6年半一緒に働いてわからなかった。ただ、今にして思えば思い当たる節はある。机を整理していて自分の父親の運転免許証が出てきた時のこと、T社長は迷うことなくそれをゴミ箱に放り入れた。この感覚は私にはない。『ありえないレベルで人を大切にしたら23年連続黒字になった仕組み』という本に共感し、T社長に読んでもらったところ、「俺にはここまで(社員を大切に)する考えはない」と言いきった。

 また、高校の同級生を社外取締役にしていたが、その同級生が退任後、お金に困ってT社長に300万円の借金を頼んできた。その話を私にしながら、「返ってくると思うか?」と尋ねてきた。元銀行員の感覚から、貸すなら返済を期待しない方がいいと思ってそう答えたが、T社長はその場で断ったそうである。「泣かれて困ったよ」と半ば愚痴のようにこぼした。ちなみに、断られたその方はS先輩に頼みに行ったそうであるが、S先輩は困惑しつつも貸したそうである(後日返してもらったと言う)S先輩は普通のビジネスマンの身分である。

 私であれば、親しさにもよるが、自分の会社の社外取締役を頼むくらいの間柄なら、無理のない金額で貸すだろう。少なくともゼロ回答はない。条件として、「例え返せなくても飲みに行く間柄は維持しろ」と言うだろう。それで友達を失いたくはない。T社長にとっては、友人関係よりお金の方が大事だったということだろう。例え損をしたとしても、その金額が自分に悪影響を与えるほどのものでなければ、困っている友人を助ける方が気分もいいと思うが、T社長にとってはそうではないのだろう。「お金には変えられないものがある」とはよく言うが、T社長にはそんなものはないのだろう。

 また、親の代から家族ぐるみである人と付き合っていたそうであるが、その人が数年前に金融証券取引法違反で逮捕された。T社長も我が社も関係を疑われて検察の取調べを受けたが(きちんと関係ないことは認められた)、それを機にT社長はその人とキッパリ関係を絶った。最初のうちは弁護士に接触しない方がいいとアドバイスを受けたことによるものであるが、ほとぼりが覚めて、後日お詫びを兼ねて連絡があった時も嫌々ながら弁護士を同席させて会ったそうである。私なら弁護士がなんと言おうと、無条件で会って励ますだろう。

 よく、窮地に陥った時の友こそ真の友と言われるが、T社長は真っ先に逃げ出すタイプである。おそらく、T社長には窮地に陥った時に友人などに我が身を顧みず手を差し出すなんて感情などないのだろう。いわんや社員の「使い捨て」を気にするようではない。私の感覚から言えばとても信じ難いのであるが、そういう人間性なのである。もっとも、本人はそれのどこが悪いという感覚であろうし、人の感覚は違って当たり前なので悪いとは言わない。強いて言えば、人間性の違いと言える。

 同じ高校の後輩を使い捨ての形で首を切り、そんなことをすれば同窓会での評判が悪くなるであろうにまったく気にする素振りもない。立派と言えば立派である。であれば、法廷バトルも遠慮はしない。徹底抗戦しようと意気込んでいる。世の中には色々な人がいる。冷たい心の人もいれば温かい心の人もいる。冷たい人を恨んでも仕方がない。温かい人とのみ交われば良い。少なくとも自分から人を裏切ることはせず、困った友には手を差し伸べられるようでありたい。そして願わくば、助け上げられるだけの「力」を持ちたい。「知り合えてよかった」と思われる人間でありたい。

 還暦が近づいてきている年であるし、自分自身に後ろめたくない人間、子供に対して恥ずかしくない人間。自分はそういう人間でありたいとつくづく思うのである・・・


Dim HouによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 


2022年8月21日日曜日

ひげ

 小学生の頃、床屋に行くと言うたびに、母親から「顔を剃らないように言いなさい」と言われた。「どうして?」と問うと、「髭が濃くなるから」と。その時はよくわからないまま言われる通りにしていた。しかし、後日、大学生になってから後悔したものである。「言われた通りにしなければ良かった」と。と言うのも、その頃髭を伸ばしたいと思うようになっていたのであるが、どうも自分は髭が薄くて思うように生えなかったのである。よってその時になって母親を恨んだというわけである。

 やがて社会人になったが、選んだ職業は銀行員。ドレスコードで髭はしっかりと禁止されていた。以来、髭を生やしたいという思いを封じ、朝起きて髭を剃る毎日。土日には髭を剃らないことにしているが、あわせて連続休暇の時に剃らないのが長年の習慣。それは肌を休めると言う反面(私は電動シェーバーは使わないのである)、髭を伸ばしたいという想いに対するささやかな意思表示。土日は大したことはないが、連続休暇は910日間に及ぶので、結構伸びる。ただ、結婚してからは妻の評価は悪い。

 そもそもであるが、女性は男の「毛」に対して嫌悪感が強いように思う。髪の毛はともかく、髭や腕や胸や足などの体毛については特にである。その結果、美に聡い男子は「ムダ毛処理」をやっているそうで、私の感覚からするとこれはまったく受け入れられないもの。そんなものに金と時間を費やすなら、ベンチプレスに金と時間をかける方を選ぶだろう。人の趣味にとやかくは言わないが、それがモテる秘訣だと言われても、そんなことをしてモテるならあえてモテない道を選ぶだろうと嘯いてしまう。

 50歳で銀行を辞め不動産業界に転じた時、脳裏を掠めたのは、「髭を生やそうか」という想い。しかし、長年髭など生やさずにきたものだから勇気が出ない。それに1年先に入社した人が、入社に際して「髭を剃れ」と言われて剃ったと聞かされたので断念した。正式なドレスコードはないものの、「社長の意向」という暗黙のドレスコードがあったのである。そしてこのまま自分は髭を生やすことなく終わるのだろうなと漠然と感じていた。まぁ、生やすとしたらリタイアした後だろうが、その時にどうなっているかはわからない。

 そんな状況に転機が訪れたのは思ってもいなかった転職である。不動産会社の社長が、社員の誰にも告げることなく会社を売却し、ちょうど1年前、今のシステム開発会社に転職した。まず驚いたのは、会社の若者の自由な服装。Tシャツにジーンズといった出立。ネクタイはおろか、ワイシャツを着ている者すらいない。さすがに社長や部長らはビジネスモードだったが、ドレスコードは暗黙のものさえない状態であった。もちろん、とは言え、Tシャツのお兄ちゃんもさすがにビジネネス面談ではワイシャツ姿である。

 それに加えて、現在のコロナ禍環境。みんな当たり前のようにマスク姿。ふと見ると、ある課長がペットボトルを飲む際にマスクをずらすと無精髭がのぞいた。そこでこの夏、思い立って夏休み突入と同時に髭を剃るのをやめ、そのまま伸ばすことにした。もちろん、さすがに頬や顎髭はマスクでもカバーできないので、休みが終わるとともに剃り落としたが、口髭はそのままにした。以来、3週間。口髭はそれなりに成長している。

 髭も人によって様々であるが、私の場合、それほど「密度」は濃くない。人によっては芋虫みたいな髭の人もいるが、私は頑張ってもそうなりそうもない。それはそれで良かったと思うが、伸びてくると「無精髭の延長感」に満ちている。それなりに「お手入れ」が必要であるのは、一応想定はしていたものの、「やはりな」という実感である。これが面倒くさそうである。髭を生やす上での最大のネックになりそうである。

 生やし始めると、気になるのは周りの反応。まず家族の反応であるが、妻は冷ややか。もともと髭面を嫌っていたところがあるが、ラブラブな時代は「嫌だ」と意思表示していたが、無関心なこの頃は「本人が似合うと思っているならいいんじゃない」と私に直接ではなく娘に語る始末。娘はニヤリとしただけ。息子は気づいていると思うが、無反応である。実家の母親は批判を口にしない。唯一、父親だけは「俺も生やそうかな」と言ってくれた。やはり男同士である。

 職場ではマスクをしているので、部下の女性陣は気づいていないのかもしれない。社長とは飲みに行った時にマスクを外したが、ノーコメント。少なくとも否定はない。当面、外部の人と会う時はマスクをしているので問題は生じない。マスクを外したところで他所の会社のことだからクレームが出ることもない。ということで、しばらくはこのままにしていこうと思う。

 髭はイスラム圏に行けば男らしさの象徴である。文化の違いであるが、当たり前のように髭が受け入れられる文化は羨ましく思う。これからは、周りの反応を気にすることなく髭を生やしていたいと思う。唯一のネックは「お手入れ」だろうか。さすがにこれを否定する気はないが、面倒臭くなった時、それが髭を剃る時だろう。その時がすぐかどうかはなんとも言えない。それはともかく、長年の思いでもあるし、しばらくは鏡の中の髭顔を楽しみたいと思うのである・・・



BirgitによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

   


2022年8月17日水曜日

年寄りは怒りっぽい

 昔、年寄りはみな頑固で怒りっぽいというイメージを抱いていた。だが、自分もだんだんと歳を取るにつれ、それは違うのではないのかと思うようになってきた。というのも、最近よく電話で相手をやり込めることが多いのだが、周りからどうも「またか」という目で見られているようなのである。当の本人は、当然のことと考えているのだが、周りから見るとそうではないとすると、少し認識を改めないといけないのかもしれない。自分も怒りっぽいジジイになりつつあるのかもしれない。

 先日、某通信社に対して電話をかけた。法人で利用しているサービスを解約しようと思ったのである。ところが電話応対に出た若い担当者がどうにも対応が悪い。こちらは法人として、社名、住所、電話番号を告げたが、それに加えて「届出の暗証番号」に「届出の担当者名」を聞いてきた。わかるわけもないのでその旨を伝えると、「ページが開けない」とのたまう。そんなの知るかと思って「調べてくれ」と言うが、何度も電話を保留にしてはできないと言う。

 言葉遣いは丁寧だが、言葉の端々に揚げ足を取られまいとする心遣いが窺える。慇懃無礼とも言える。「上司に代われ」と要求したが、しばらく保留にした後「できない」との回答。請求は法人カード宛にきている。そこで、「この請求は何かという問い合わせを受けたらどうするのだ」と聞いてみた。対応は同じだと言う。「わからない相手に請求をするのか」と問うと、「請求をすると言うことは契約があるということ」と答える。「ならその契約を示せ」とこちらも迫る。

 さらにこちらは「元々個人契約だったものを切り替えた」と情報を伝えると、「それはあり得ない」と答える。だが、現実に毎月請求は来ている。担当者は、念の為当該個人から電話をしてくれと要求してくる。なぜなら個人の契約のままの可能性があるから。「では法人契約か個人契約か調べてくれ」と問うと、「それは個人情報だから答えられない」と言う。ここで少しキレかかる(少しである。半分以上は呆れていた)。個人情報とは個人を特定する情報で、契約が法人か個人かを答えることのどこが個人情報だと担当者を詰める。

 実は、これも良くある。個人情報保護の世の中はいいのだが、何かにつけて個人情報と言えばいいと思っている。挙句にこの担当者のように個人情報でないものまで個人情報と言い出す。「個人情報とは何か」をよく理解しないままわかったつもりになっているのである。挙句に私のフルネームを聞いてくる。なぜフルネームが必要なのかと問うと、どうやら記録に残す社内ルールらしい。「それこそ個人情報だ」と答えて回答は拒否した。

 そんなやり取りが30分以上続き、若い担当者は「調べて回答する」ということになった。「いつまで」と問うと、「23日」と答える。なぜそんなにかかるのかと問い詰めるも、「かかるのだ」と慇懃無礼に答える。ここに至り、部内どころか隣の部の人たちも耳ダンボになっているのを感じる。電話を切って、仕方なく社長に個人名で電話をするように依頼する。元々社長が個人契約していたサービスなのである。そして契約はあっさり解約できた。

 そもそもコールセンターのようなところは、客の問題を解決するのが仕事である。自分達の都合を押し付けて、言葉尻を取られないように警戒しながら対応するものではない。件の担当者も答えに気づいていたわけである。個人契約から法人契約に切り替えることがあり得ないなら、その場で心当たりのある個人名を聞いて契約を調べてみればいいのである。そうしてヒットしたなら、「個人で契約が残っている、ついては本人でないと解約はできないので本人に電話してもらってくれ」と回答すればいいのである。こちらもそこまでわかれば確証を持って社長に依頼できる。それで問題は解決する。

 件の担当者も若かったので、おそらく新入社員なのだろう(そうでなければ相当恥ずかしい)。そのように対応できたら余計なストレスも感じなかったはずである。今頃、私はクレーマーとして記憶されているのだろう。もう少し対応の仕方もあっただろうかと考えてみると、もう少し寛大な気持ちでいれば穏やかに接することもできたかもしれない。相手が自分の息子だと、そしてなれない仕事にあたふたしていると想像したら、もっと違う対応ができただろうと思えば反省の心も湧き起こってくる。

 やっぱりそういう対応ができず、自分の正当性ばかり主張していると、怒りっぽいジジイになってしまうのかもしれない。自分はまだまだ若いと思うのはいいが、「まだ若いものには負けない」と言うのもジジイのイメージである。身はともかく、心までジジイにならぬようにしたい。次回からもっと意識しようと、改めて思うのである・・・


Jinwoo AhnによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 


2022年8月14日日曜日

論語雑感 雍也第六(その22)

 論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

樊遲問知。子曰、「務たみ義、敬鬼神而遠謂知なり。」問よきひと

曰、「よきひと者先難而後獲、よきひとなり。」

【読み下し】

樊遲ほんちさときふ。

いはく、たみよきことつとめ、みたまゐやまとほざくるを、さときなり

よきひとふ。

いはく、よきひとなるものかたきさきにしうるのちにす、よきひとなりと。

【訳】

樊遅が知を問うた。

師がこれに答えた。

「民が正しいとすることの実現に務め、亡霊を敬いつつ遠ざける。これを知と言っていい。」

仁者らしさを問うた。

師がこれに答えた。

「仁者たる者は難しい仕事を先に行って、報酬を後で受け取るものだ。仁者らしいと言っていい。」

『論語』全文・現代語訳

************************************************************************************

 

 普段から漫画を読んでいるが、最近読んだものに『チ。―地球の運動について― 』がある。これは地動説についての物語。漫画の中の登場人物たちが天体観測を通じて教会の教え(天動説)に疑問を持っていくというもの。まずは惑星の動きがおかしいというところから始まる。天動説によれば惑星の動きは一方向であるはずなのに、途中で戻る動きが観測される。これをどう解釈すべきか。そこから実は自分達のいる地球が太陽の周りを回っているのではないかという仮説に辿り着くのである。


 科学的には適切なアプローチなのであるが、これに猛烈に反発するのが教会勢力。神の教えに反く危険な考えとしてこれを弾圧する。考えを改めない者は不穏分子として火刑に処されてしまう。たかが学説であるが、当時は命懸けなのである。ガリレオが宗教裁判で、「それでも地球は回っている」と呟いたというエピソードも有名である。それは17世紀の話であるが、それより2,000年も前に「民が正しいとすることの実現に務め、亡霊(神、霊的なもの)を敬いつつ遠ざける。これを知と言っていい。」と語っているのは実に深いと思う。


 今の時代であれば、それはもう遥か昔の科学が発達していなかった時代の物語としてしまいそうであるが、盲目的に何かを信奉し、冷静な議論を封じようとするということは今でもありうることである。身近なところでも、新しい提案に対し、過去の出来事や以前からの慣習などを盾に議論を否定してしまうということは多々ある。そこには、過去においては確かにそれで良かったかもしれないが、時代は変化しているということを考慮しない、あるいは単に変化を嫌うということもあるかもしれないが、白紙の状況で考えてみるということを厭うことがあるのだろう。


 本来であれば、地動説に対しては、きちんとした観測記録なり考えなりの根拠を示して議論を戦わせるというのが知的態度であると思うが、面倒なのか自らの考えに固執するのか、当時の教会はそうした「正しい態度」を取れなかった。しかし、似たようにケースは現代でも往々にしてある。誰もがガリレオの時代の教会の態度に呆れるが、自らが本質的に同じ態度をとっていることに気づかないのである。そういうものなのかもしれないが、改めてそれが側から見てどうなのだと考えると、大いに考え直したいと思うところである。


 仁者のあり方として説かれる「難しい仕事を先に行って報酬を後で受け取る」という考え方は、中国古典では『孟子』に「先義後利」という考え方で紹介されているようである。もっとも、孟子の方が時代は後だから、もしかしたら孔子の言葉がヒントになっているのかもしれない。この考え方は、ビジネスでは当たり前のようになっている。日本でも富山の薬売りなどはこの典型だし、そういう意味では歴史も古い。また、「金の話」はどうしても卑しく思われてしまいがちであり、そういう我が国の気風にもマッチするのかもしれない。


 ビジネスでも確かに「先に金の話をする」というのは、避けたいところである。ただ、最近、それもどうなのかと思わなくもない。それは今の会社に入って採用も担当するようになってからそんなふうに感じるのである(小さな会社の総務部は、財務も人事も兼務なのである)。中途採用においては、当然「給料はいくら」という話をした上で、求職者も考える。私も転職時に「給与はいくらか」というのが、重要なファクターであった。私の場合は、転職の際に最終的に2社に絞り、給与が低い方を選んだ(あえて選んだのではなく、総合的に考えて給与以外に魅力的な部分が多かったのである)が、それでも給与の条件は「事前に」確認すべきものである。


 しかし、新卒採用の場合、基本的に給与の話は双方ともに出ない。求職者には募集要項を開示しているから、それを見てある程度の目処はつけていると思うが、基本的な初任給は着任時に正確な金額が告知される。「先義後利」の考え方とは多少違うと思うが、「まずは働いてから」という部分では共通しているのかもしれない。提示する方からすると、怖さがある。「本当に給料に見合う働きをしてくれるのか」という疑問があるからである。低ければまだしも、要職でそれなりの給与を払うとなると、不安が残るのは事実である。あまり低くしてしまうとそもそも入社してくれないというリスクもある。


 私も入社時には迷いもあった。給与自体はもう1社の方が高かったからである。しかしながら、転職後1年で随分と評価していただき、先月から役員にもしていただいたので、結果的に給与(役員報酬)の方は今の会社の方が高くなった。後からついてきたと言えるが、それだけの働きをしたから迷いもなく高い給与をくれるのだと思う。私も堂々といただいている。先に働くというのは、働く方からすればリスクである。ただし、それはビジネスマンである以上、「取らなければいけないリスク」であると思う。働いて実績を出してから、要求すべきものであろう。


 当然と言えば当然であるが、世の中に給与に対する不満は尽きない。そこには「もっともっと」という人間の欲もある。かくいう私も「もっと上げて欲しい」と常に考えている。それはそれとして、「もっと上げて欲しい」という考えは持ってもいい考え方だと思う。ただ、そこには「仕事をきちんとこなして」ということがあるのは当然のことである。それは仁者でなくても、働く者の心得と言えるだろう。実際、評価の高い社員から面談時に「給与をもっと上げて欲しい」と言われると、頼もしいと感じるし、会社としてもそれに応えないといけないとも思う。


 2,500年前の孔子の言葉は、形は変わっても今に至ってなお真理である。仁者を「ビジネスパーソン」に置き換えて、理解したいと思うのである・・・



M WによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

   


2022年8月11日木曜日

若い頃の苦労はするべきか

 我が社にいる2人の社員。1人はもうベテランだが、しっかりとした技術力があって、本人もそれを自負している。もう1人は若手社員。ワークライフバランスを謳い、今時の若者という感じである。2人は同じチームにいるが、互いの感情はあまり良くない。ベテラン社員からすると、「学ぶ気がない」。若手からすると、「煙たい」。それは2人の人生観からくるもので、残念ながら正反対の人生観ゆえに交わる要素がない。まぁ、人生観などというものは、一つではないから仕方がないと言えば仕方がない。

 ベテラン社員は自分のしっかりした技術を若い頃に苦労して身につけたと言う。特にある先輩の影響が大きかったと語る。厳しい指導をしてくれたと言うが、その時は殺したいくらいに思っていたそうである。それでも耐えてついて行った結果、少しずつ誉めてもらえるようになり、やがては今の礎となる技術が身についたそうである。今にして振り返ってみると、その先輩の厳しい指導は良かったと思っているそうである。似たような話はどこにでもあると思う。

 一方の若手社員は、「仕事は仕事、プライベートはプライベート」と屈託がない。「人生仕事ばかりではない」と言い、自己研鑽すら仕事が終わった後にやるのには抵抗があると言う。そう言えば自分も社会人になったばかりの頃は、そんな考えを持っていたように思う。都心の支店に配属された同期が5時に仕事を終えているというのに、郊外店に配属された私は8時まで付き合い残業をさせられた。残業と言っても、仕事というより雑用である。そこには「上の人が働いているのに若手が先に帰るのは失礼」という感覚があった。若手社員の話を聞きながらそんなことを思い出していた。

 銀行員とシステムエンジニアとでは仕事は大きく異なるが、それでも若い頃にある程度しっかり仕事を覚えないといけないというのは共通していると思う。時代背景の違いはあっても、そういう基本は大きくは変わっていないだろう。ベテラン社員は、「今技術を身につけないでいて、30過ぎたらどうするんだろうね」と語る。確かにその通り。今のまま目の前の仕事をこなすだけで満足していると、いつまで経っても上のステップにはいけないように思う。

 私も理不尽なつき合い残業に憤慨していたが、自己研鑽については肯定的に捉えていた。英語から捕捉的な財務会計知識の習得やマーケティングやら何やら、銀行内の試験もあったが、通信教育や本を読んだりと誰に言われるとでもなくやっていた。早くつまらぬ郊外店から抜け出したいという思うもあったかもしれないが、誰に強制されたものでもない。それらの中には英語のようにあまり効果のなかったものもあるが、読書の習慣だけは今に至って考え方の熟成という意味では大いに役立っている。

 確かにワークライフバランスは大事だと思う。ただ、「若い時の苦労」もそれに負けず劣らず大事であると思う。ワタミの渡邊会長も若い頃の苦労は身になると公言し、それを推奨していたようであるが、過重労働で「ブラック企業」のレッテルを貼られてしまった。詳しい実態はわからないが、そういう先人の考えがうまく伝わらなかった結果だろうが、兎角そのバランスは難しい。特に人は自分の考えを容易には変えないもの。かの若手に「若い頃の苦労」を説いてもあまり伝わらない気もする。

 かのベテラン社員も殺したいほど先輩を憎んでいた期間に仕事を辞めていた可能性もある。私も然り。かの若手に「若い頃の苦労」を強制したら、もしかしたら辞めてしまうかもしれない。若い人が仕事を嫌になって辞めてしまうような事態は当然避けたいと思うから、強制するのも難しい。例えそれが本人のためだと思っていても。結局はすべて本人に帰趨するところであり、周りがとやかく言えないものかもしれない。ただ、本人が正しいと思っていても、周りの経験談に触れれば変わるかもしれない。本人が望まなくとも、適切な指導も必要だろう。

 一方、「教え方」の問題があるのも確かである。殺したいほど憎まれるような教え方が正しいとは思えない。私が新入行員時代に反発したのも、この部分が大きい。なんでも「仕事だ」と言えば従って当然という空気があった。もしも私があの頃の自分を指導するとしたら、考えを聞きながら穏やかな関係を作りつつ、言い聞かせると思う。ただ、それが本当に正しいのかどうかはわからない。そんな苦労をしなくても、それなりに何とかやっていけるのかもしれない。そしたらそれが本人にとっては正解ということになる。

 「水辺に馬を連れて行っても水を飲ませることはできない」とはよく言われる。最終的に飲むか飲まないかは本人次第であり、周りの人間、特に指導的な立場にある人間は、「水辺に連れて行くこと」が重要だとも言える。さらに言えば、「水を飲みたくなるようにさせる」ことができれば、名コーチとなるのかもしれない。色々と難しいが、やはり「水辺に連れて行く努力」と「水を飲みたくさせる努力」はして、「苦労が自分のため」だと思ってもらえるようにするべきなのだろうなと思うのである・・・


Holger DetjeによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 



2022年8月7日日曜日

うまく議論を進めていく方法

 人と意見が対立した時、昔は相手を論破しようとあれこれと考えたものである。基本的に自分の意見は正しいと思っているし、それゆえに「間違っている相手の考えをいかに正すか」が大事であったのである。どうしたら相手に対し、自らの考えの過ちに気づいてもらえるか。あれこれと説明するも、どうしても相手が考えを改めないと、こちらもだんだんと熱くなってしまい、ついつい余計な一言を発してしまうこともあった。それで関係を悪くしてしまった相手もいる。

 かつて職場の同僚と大きな衝突をしたことがある。相手の主張は平たく言えば、「目的が正しければ手段は逸脱しても許される」というもの。それに対し、私が「目的が正しくても手段は逸脱するべきではない」と反論したのである。よく刑事ドラマであるような、証拠をでっち上げて犯人を逮捕するみたいなものである。どちらが正しいかは本当に難しい問題だと思うが、その時我々が直面していた問題に限って言えば、私は自分の意見が正しかったと今でも思う。

 では、自分が正しかったから相手と仲違いしてよかったのかと言えば、そうではない。そこはもう一工夫あっても良かったと思う。また別のケースでは、相手の意見がどうしてもおかしく、さらにその間違いに気が付かないのにイラつき、相手がしゃべるそばから論破してしまった。その時は相手も黙ってしまい、結局は私は自分の主張を通して会社としての対応を決めた。それは結果的に正しい選択であったが、論破された相手が納得していたかと言うとそうではなかったと思う。それ以来、私と意見が衝突すると自分の意見を簡単に引っ込めるようになったように思われる。

 意見が対立するケースでは、大抵相手に対し、「どうして理解できないのか」という苛立ちが生じてしまう。そういう場合、大抵相手に対する尊敬は持てないどころか、腹の中でバカにしてしまうことが多い。きっとそういう気持ちも相手に伝わるのかもしれない。それに自分自身、大抵後で自己嫌悪感に苛まれることになる。一方、それに対して、相手が素直に同意してくれた場合は気分も良い。「どうしたら相手に理解してもらえるのか」は、私にとって大きなテーマであった。

 しかし、ここ最近、そんな考え方も変わってきている。転職を機に、自分の考え方を変えるようにしたのである。すなわち、「相手は自分の意見こそが正しいと考えていて、その考えは変わらない」と考えるようにしたのである。また、相手がなぜそういう考え方をするのかと考えるようにもしたのである。大抵、相手がそう考えるには十分な理由がある。ならば、まずその考えをしっかり聞くことが大切だと考えたのである。当然ながら、相手と同じように考えるのであれば、自分もそう考えるかもしれない。

 そもそも人は自分の知識や経験をもとにさまざまな判断を下す。よくよく突っ込んで聞いてみると、過去の知識や経験からそのように考えたときちんと説明してくれる。じっくり聞くと、「なるほど」と思えるものである。「なるほど」と思えても、自分が同じように考えるかと言えばそうではなく、もっと大局的に判断しようよと思うことも多い。同じ経験をしたとしても、立場を変えれば考え方も変わったりする。違うのは、知識か経験か立場か、それによって同じ事象を目にしても意見は異なってくる。

 そうわかれば、議論もしやすくなる。相手の立ち位置が違うという場合は、立ち位置を変えてみるように促すが、それも難しければ、それ以上説得しても無駄なこと。相手には相手の意見があって、それは自分の意見と比べ、正しさは五分と五分。そう考えれば無闇に相手を否定する必要もないし、否定そのものもできない。相手の意見を一つの意見として受け入れ、ただ自分とは違うと思うしかない。そしてそう相手に伝えるしかない。

 そんなことを繰り返してきたところ、このところ人間関係は良好である。意見の違いに際し、それを真っ向からぶつけ合うのではなく、意見の違いの根拠を説明するに止める(私は全社ベースで考えている、とか)のである。面白いことに、それで相手が考え直してくれることもあるし、そこまでいかなくても議論は続けてくれる。そのほかの相談事にも応じてくれるし、そんな対応をしていたら、私自身いつの間にか会社の役員会では取締役間の潤滑油的な存在になっている。

 私がそんな経験を通して学んだのは、「他人の意見」を否定しないということである。まずは相手の考えの根拠をじっくりと聞き出し、そこで根拠がわかれば、その根拠に対する意見をぶつけてみる(「部長の立場ではなく、取締役の立場で考えてみたらどうでしょう」みたいな感じ)。どちらかに決めなければならない問題であれば、どうするのが良いか相手の意見を聞くのも良い。相手が責任を持ってやるというならそれに従って任せるのも手だし、相手の対応によっては自分が責任を持つからと言って了解をもらうのも手である

 そうした「相手の意見を否定しない」対応は、意外に物事をスムーズに進めさせることができる。激論を飛ばす必要などどこにもない。かつてもこういう対応が取れていたら、随分と違っていただろうなとつくづく思う。まぁ、そういう経験をしてきたからの境地であるからかつての激論も意味はあったと言える。せっかく「痛い思い」をして身につけた知恵なので、これからも大いに活用していこうと思うのである・・・


Susanne Jutzeler, Schweiz,によるPixabayからの画像 


【今週の読書】




2022年8月3日水曜日

親の説教はなぜうるさいのか

 我が家の息子は高校2年になった。身長は私よりも既に高くなり(体重ではまだ負けていない!)、体はすっかり大人である。さらに高校1年時にもう彼女ができたが、私よりも早い。私よりも明るい性格で、家庭でもよく話をするが、それでも子供の頃からすると口数は減ってきている。いつの間にか自分なりの意見を言うようになっているし、男の子であれば誰でも成長するに従って親離れをし、昔は絶対だった親の考えに反発もするようになる。それは極めて健全な成長過程であると思う。

 体の成長に伴い親に対しても意見を言えるようになる。そうすると、口うるさく言われた事に従わないということができるようになる。親が口うるさく言う事といえば、「勉強しろ」ということが筆頭になるだろう。親によっては、就職先や結婚相手なんかについても意見を押し付けてくるかもしれない。親子対立はドラマの構成要素にもなるくらいだから、大なり小なりどこででもありうることだろう。なぜ、親の意見は子供に受け入れられにくいのであろうか。

 それは両者の「経験値の差」によるところがまず大きい。親は一通りの人生を歩んできている。進学、就職、結婚・・・当然、成功もあれば失敗もある。自分の経験を子供に伝え、「正しい人生」を歩めるようにしてほしいと思うのは親として当然である。しかし、子供の方はそんな経験などない。勉強などわからないし面倒だしとなればやる気も出ない。学校の成績が悪いからといってどうなるのか、大学のレベルが低いからと言ってどうなのだと思うばかり。実体験として経験していないから親の言うことを理解できないし、しようとも思わない。

 就職した会社が学歴尊重の会社であれば、やっぱりもっと勉強しておけば良かったという後悔に結びつき、自分の子供には勉強させようと思う。倒産など経験すれば、やっぱり安定した公務員がいいとなる。自分の直接の経験でなくても見聞きした情報でも経験は経験である。結婚は、最初は恋愛モードで突っ走るが、やがて互いの育ちや価値観が顕になる。それを経験していれば、結婚に関しても親はひと言言いたくなるが、恋愛モード100%の子供の耳には入らない。まぁ、結婚の現実を知ってしまうと、結婚する若者が余計減ってしまうかもしれないから、それはそれでいいのかもしれない。

 すべては「経験値」からくる考え方の相違である。経験があるのとないのとでは必然的に違いがある。特に失敗経験は、同じ轍を踏まないという意味でも大きな経験値である。子供に同じ失敗はさせたくないというのも親心。ついつい口うるさくなったりすることもある。勉強をしなければならないというのは、子供もある程度理解できるが、「どの程度」というのは経験していないだけにわからない。さもなくとも勉強嫌いだったりするとよけいに拒絶反応が高くなる。しかし、親が経験した「勉強しない不利益」を実感できたら、勉強嫌いでも机に向かうかもしれない。

 そう考えれば、子供に親の考えを押し付けようと思ったら、まずは自分の経験談を語るところから始めないといけない。自分はなぜ子供がそれをやることが必要だと思うのか。その根拠をきちんと語れば、子供も親の言う事を真剣に聞くかもしれない。ただ、そこでその親の考えが正しいのかという問題もある。それは経験値だけに、「経験していない事はわからない」という限界である。未知の世界については親も確たることは言えない。そこから保守的にリスク回避的な発想になることもある。

 例えば、今の時代、大学に行くことは当たり前に近くなっている。当然、親も子供に大学くらい出ておけと言う。しかし、世の中当然ながら大学を出ていない成功者もごまんといる。私の同級生でも大学に行かずに成功している者が少なからずいる。しかし、大学を出た自分は「大学を出ずに」世の中を渡っていく術を知らない。ゆえに、子供にはやっぱり「大学へ行け」というアドバイスになる。子供の立場からしたら、親のそういう経験値を加味した上で言われた事を判断する必要がある。

 私が高校を卒業して以来、常に頭にあったのは、今で言うメンターが欲しかったということ。大学にしろ、就職先にしろその時点でアドバイスが欲しかったと思う。父は中卒で働いてきたため、大学や就職という点ではアドバイスをもらえなかった。大学はともかく、就職先については、銀行以外にももっと広く目を向けてみるのも良かったと思う。いろいろと経験値を積み重ねてきたゆえ、息子がいずれ就職となったときはそれなりにアドバイスできるのではないかと思う。どこに就職しろとまでは言わないが、少なくとも考え方は伝授できるのではないかと考えている。その時は、その根拠も伝えるつもりである。

 子供のためを思うなら、しっかりと伝わるようにモノを言わないといけない。ただ押し付けるのではなく、受け取ってもらえるようにしないといけない。自分の経験値というボールを取りやすいところに投げたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像