2016年2月28日日曜日

哲学の世界

浅田彰の『構造と力―記号論を超えて』を読んだ。
いや、正確に言えば、「読み始めてやめた」である
。哲学書である事はわかっていたし、それでもベストセラーになった有名書でもあり、大いに知的興味をそそられて手に取ったのであるが、読む事は出来ても理解することはあまりにも難しく、途中で断念したのである。

「難しくてわからない」と言うのは、正直言って苦痛である。わからないならわかるように努力すべし、とこれまでやってきたし、そうした努力をせずに放り投げるのは如何なものかと思うが、「そういう努力をする価値があるのか」と考えると、その時間を他の本(まだまだ「積ん読リスト」は果てしなく溜まっている)を読む時間に充てた方がいいと判断したのである。

難しいのはなぜなのか、を考えてみた。
例えば第1章の冒頭に次のような文章がある。
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エントロピーの増大による一様化・無秩序化に杭しつつ、「ネゲエントロピーを食べる」こと、即ち「エントロピーを捨てる」ことによって秩序を維持している局所系。「エントロピーの大海の只中のネゲエントロピーの小島」、これが生命である。このことが意味するのは、生命が動的解放系であり、自らの構造と内外の諸過程を情報によって制御しているということに他ならない。
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読んでみても何を言っているのかよくわからない。

ここで「エントロピー」という単語の意味を調べると、「無秩序の状態」であるらしく、「エントロピーが増大する」とは「秩序ある状態から無秩序の状態への変化」ということだと分かる。そうすると、それを突破口に何となく全体の意味もわかってくる。それで読みこなせたという満足感は得られるかもしれないが、そこで冷静に考えるもう一人の自分が出てくる。「たかだか生命を言い表すのに、そんなに複雑に説明する必要があるのだろうか」と。

よく、「頭の良い人というのは、難しいことを簡単に説明できる人」だと言われる。だとすれば、哲学者は「簡単なことを難しく説明する人」であり、したがって馬鹿者だということになる。さすがにこれだけの本を書く人を、あるいは歴史に名だたる哲学者を馬鹿者というのは気がひける。ただ、素人に理解できないものを書いているのは事実である。

もっとも哲学とは、ただ簡単なものを難解に説明しているものでは、当然ない。先の文章も、単に「生命とは」と説明しているのではなく、それを「秩序」という概念と絡めて考えているのであり、そうした思索そのものが哲学なのだと思う。そしてこれは素人のために書いていると言うよりは、「わかる人」に向けて書かれているということができる。

それは、「エピステーメー」「ハイアラーキー」「ファナティック」「方向=意味(サンス)」「メタフォリック」「コスモス、ノモス」「ポトラッチ」などの単語が、ごく当たり前に理解されているものとして使われることからもわかる。そこには、当然それらの言葉の意味を学んで理解しているという前提がある。そうしたレベルに達していなければ、たとえ私のように一応名の通った国立大学を卒業している人間であっても、読みこなせないということになる。

似た例としては絵画がある。例えばミレーの絵などは個人的に見ても分かるし好きであるが、ピカソの絵はどこがいいのかわからない。わかる人は、多分絵画に造詣が深い人なのだろうが、芸術的センスや造詣の浅い一般人には理解できないだろう。この本もそういう類のものだと言える気がする。

例えば大学時代に読まされた法律の専門書などは、一読してすんなり理解できるというシロモノではない。学びながらやがて読みこなせるようになっていくもので、それは技術系の専門書にしてもそうであろう。研究者間での「専門用語」が羅列されている専門書は、とても素人には読めない。そう考えれば、この本が難しくて理解できないとしても、別に恥ずべきことではないと言える。

もっとも、一つ一つの単語の意味を調べ、難解なところは繰り返し読めば、多分理解できそうな気はする。その点では、どう考えても理解できそうもないピカソの絵とは次元が異なるといえ、親和性と言う点においては、はるかに近いと言える。ただそれは通勤電車の往復の中でできるものではないというだけのことである。

いずれそうした時間をとって、じっくり研究してみるのもいいかもしれないと思う。基本的にその手の哲学は好きであり、苦にはならないと思う。そういう意味では、かつて読みこなそうとして途中で断念してしまったキルケゴールの『死に至る病 』なんかも読んでみたいと思う。

途中で断念したとはいえ、知的好奇心を大いに刺激された一冊であることは間違い無いのである・・・

【今週の読書】
イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】 - P.F.ドラッカー, 上田 惇生 ビジネススクールでは学べない 世界最先端の経営学 - 入山 章栄





2016年2月24日水曜日

高校受験

本日は都立高校の受験日であった。詳しくはわからないが、「第一次募集」というものらしい。我が家の娘がちょうど高校受験であり、第一志望が都立高校ということもあって、本日朝、やや緊張した面持ちで出掛けて行った。

自分が高校を受験したのは、考えてみるともう37年前ということになる。やはり都立高校を第一志望とし、同レベルの私立高校といわゆる「滑り止め」私立高校と合わせて3校を受験した。幸い3校ともすべて合格し、家から歩いていける距離にあった都立高校へ進学した。

当時都立高校は、「学校群制度」という制度下にあり、日比谷、九段、三田高校が構成する「11群」以下、各高校が23校で「群」を構成し、受験生はこの「群」ごとに受験し、合格者は任意に「群」を構成する高校に割り振られた。つまり、「日比谷高校に行きたい」と思って「11群」を受験し合格しても、実際に日比谷高校に行けるかどうかは運次第で、九段高校や三田高校に振り分けられる可能性があったのである。

私の志望校は近所にあった「14群」の高校で、幸いなことに試験に合格し入学も希望通りであったが、合格発表のその時まで、「合格するかどうか」以上に「希望校に入れるか」でハラハラドキドキしたものである。思えば、これが人生で最初に体験した「試練」であった。

それまでは、義務教育下、何の試練もなく当然のことのように進学し、たまにテストの成績が悪かろうと答案用紙を隠滅すれば済む話であった。ところが受験となるとそうはいかない。下手をすると、「行く高校がない」という事態になる。今から思うと大したことはないのであるが、やはり15歳の少年にとっては大いなるプレッシャーであったのである。

当時は、自分で志望校を決め、私立の受験校も決めて願書も自分で(あるいは友達と)もらいに行き、合格発表まで含めてすべて一人でやった。そんな慣れない行為の中で、不安も高まって行ったのだと思う。合格発表の前日、近所の都立高校の校門前までいき、古ぼけた校舎を見ながら「ここに行きたい」と強く思ったのを覚えている(そしてなんとなく自分はここに行けるという思いも湧いていた)。

そんな試練は、15歳にとってはいい経験であったと思う。人生最初の試練としては、程よい大きさであったと今でも思う。そのあとの大学受験はもっと大きな試練だったし、社会人になっても大波小波いろいろとある。だが、こうした大波小波は人生にはつきものだと思うし、それを乗り越えるたびに、「自立力」がついていくものだと思う。

翻って娘は、「母親と」高校見学に行き、「母親と」塾選びをし、「母親と」受験校を決め、そして受験すら一緒に出掛けて行った。ちょっと過保護な気もする一方、「女の子だから」という気持ちもある。今の時代背景もあるから、自分の時代と単純比較はできないが、果たして「人生最初の試練」として受け止められているだろうかという気持ちはある。

いずれにせよ、「不安との闘い」という意味では「試練」に違いない。今後の成長への第一ステップとなればと思う。何よりも第一志望の都立高校へ合格してもらいたい、と懐に手をやりつつ思うのである・・・

【本日の読書】
イノベーションと企業家精神【エッセンシャル版】 - P.F.ドラッカー, 上田 惇生 アンナ・カレーニナ(下) (新潮文庫) - トルストイ, 浩, 木村 






2016年2月21日日曜日

ドナルド・トランプ氏と差別意識

全世界が注目する米大統領選挙。
候補者の動静が日本でも報じられているが、個人的に目が行くのは、不動産王ドナルド・トランプ氏である。と言っても、次期大統領としてではなく、その「暴言」でである。

「ムスリムは入国禁止にすべきだ」と言ったり、「メキシコとの間に壁を築くべきだ」と言ったり、「不法移民1,100万人を強制送還させるべき」等々、なかなか過激である。日本でこんな発言をしたら、間違いなく政治生命を断たれると思うのだが、アメリカでは支持率を伸ばしているという。

最近ではついにローマ法王が、「キリスト教徒ではない」と発言したという。ローマ法王の発言は、これはこれでびっくりさせられた。これに対し、トランプ氏は「宗教指導者がそういう発言をすべきではない」ともっともな反論をしており、屈する気配はないから、「現代版カノッサの屈辱」のような事態にはなりそうもない。だが、ローマ法王まで巻き込むなんてと思わずにはいられない。

それにしても、「ムスリム入国拒否」発言をして、それが批判を浴びながらも支持率が伸びているということは、やはり共感している人がいるということに他ならない。白人の間に根付く人種差別意識は、やはり今でもあるということを聞いたことがあるし、そうした意識によるものか、はたまたテロに対する恐怖からか、心の中では共感する人が多いのだろう。

日本だったら大バッシングであろうが、そうはならない。それはもともとの国民気質の違いかもしれない。事実、日本では最近不倫騒動で宮崎議員が議員辞職に追い込まれたが、アメリカは大統領が「不適切な関係」を結んでも、「ごめんなさい」で済んでしまう。「政治家たるもの品行方正清廉潔白でなければならない」とする国民性と、「政治家の手腕とプライベートは別」と考える国民性の違いなのであろうか。

トランプ氏はまた、「ロシアのプーチン大統領とは仲良くできる」と発言しており、これも見方によっては「同じ白人同士だから」と取れなくもない。やっぱり「白人至上主義」的な意識があるのかもしれない。歴史を紐解けば、世界に破壊と混乱をもたらしてきたのは白人である。テロも元をたどれば、冷戦時代の陣取り合戦と武器供与があるからであり、遠く大航海時代にまで遡っても、白人が大人しくしていたら、世界はきっともっと穏やかだったであろう。

近年、人権意識が高まり、人類は皆平等ということが当たり前になっている。だが、心の中では密かにそれを快く思っていない人が多いのかもしれない。我が日本人も、朝鮮人や中国人に対する嫌悪感がある人は多いだろう。「人種差別」などという大げさなものではなくとも、ある種の「嫌悪」は誰にでもあるだろう。自分はどうかと考えてみると、中国はともかく、韓国は確実に嫌いである。ただそれは「韓国政府嫌い」というのが正確かもしれないが・・・

同じ日本人同士でも嫌いな奴はいるし、なんとなく人種差別とは違うと思っているが、そんなに大きな差ではないのかもしれない。個人的にも嫌いなものは嫌いとはっきり言うと思うし、だから決して立派な立場に立つにはふさわしくはないし、まぁそんな心配もないだろう。ただ、やっぱり公の場で、政府の代表となる地位を目指そうとする人物は、そんなことではいけないだろう。自分の心に正直であったとしても、適切な態度を取るのが公人である。

他国の代表をどうのこうのとは言えないが、上辺だけでも「品行方正清廉潔白」を求められる環境の方が、良いように思う。「英雄色を好む」のは事実かもしれないが、「能ある鷹」であることを求められる社会である方が良いと思うのである・・・



【今週の読書】
新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか (幻冬舎文庫) - 北野 武  アンナ・カレーニナ(下) (新潮文庫) - トルストイ, 浩, 木村





 
    

2016年2月18日木曜日

錦の御旗

子供の頃、学校でいたずらをするとよく女子に「いけないんだぁ~、先生に言いつけるわよ~」と言われた経験がある。だれでも似たような経験はあるだろう。何気ない1シーンであるが、日本人の体質をよく表すシーンではないかとこの頃思う。

歴史を振り返ってみると、日本は天皇家が代々支配する形を取ってきた。政治の実権が幕府に移っても、征夷大将軍を任命するのは天皇だし、したがって幕府の最後も「大政奉還」であった。戊辰戦争で威力を発揮したのも「錦の御旗」である。

考えてみれば、これは日本人が自分以外のものに「権威」を求めるところからきている証であると思う。欧米や中国など個人主義の国々では、自ら「正当性」を主張する。だから権力を奪取して王朝が交代するのだし、現代でもディベートなどが発達し、相手を論破する。ところが、日本では「権威」が正当性の根拠となる。だから大事なのは「主張の内容」ではなく、「権威に認められている」ことであり、だから日本人は議論が下手だと言われるのだと思う。

その昔、もう内容は忘れてしまったが、親と議論をした時に「私はいいけど世間が許さない」と言われた事がある。何のことはない、自分が非難されるのが嫌なので、「世間」のせいにしたのであるが、これも「自分の主張ではない」という形を取り、直接の批判をさけるとともにその責任を「世間という権威」に委ねた形だろう。

こうした形は様々な形で随所に表れていると思う。
「社長がそう言った」
「世論が・・・」
「○○先生が言うには・・・」
等々である。役所の前例踏襲主義もこの一種であると思うし、鬼畜米英と言っていたのが、終戦で一気に親米へ大転換したのもそうだと言えるし、同じことを言っても自分が言った時は退けられたのに役員が言えば「仰せの通りに」となるのもそうだと言える。これが権威だと言われれば、個人で異を唱えにくくなるのである。

それが良いか悪いかは別として、既にそうした考え方が日本人のDNAとして染みついていると思う。「家」制度の下、個人より組織を重んじる風土の中で、自分のことよりも「大義」=「権威」を重視してきた日本の社会ならではの流れであろう。自分の意見を下げるという謙譲の精神はいいと思うのだが、その反面、「権威主義」的になってしまっているところは否めない。

そんな我が国の伝統とはいえ、個人的にはやはり自分の意見の正当性は、自分で持たせたいと思う。「誰々がそう言っている」とか、「賞を取った」とかそういったものに根拠を求めることなく、自分自身を根拠としたいと思う。

と同時に、いずれ子供たちにもそんなことを教えたい。そうして新聞に書いてあるからとか、誰々が言っているからとか、そうした「権威」を無批判に受け入れ、考えることを放棄しないように育ってほしいと思うのである。まずは、「先生に叱られるから」ではなく、「良くないから」ダメだというところから始めるのがいいかもしれないと思うのである・・・





【本日の読書】
新しい道徳 「いいことをすると気持ちがいい」のはなぜか (幻冬舎文庫) - 北野 武 アンナ・カレーニナ(下) (新潮文庫) - トルストイ, 浩, 木村 





2016年2月14日日曜日

バレンタイン

本日はバレンタインデー。
例年我が家でもこの時期、娘のチョコ作りで慌ただしい雰囲気が漂うのであるが、今年は極めて静かであった。というのも、娘も受験生であり、それどころではないのである。

息子は息子で、あちこちでもらってきて(と言ってもかつてよりもだいぶ減っているようである)、「パパ食べちゃダメだよ」と念押してきた。だんだん数が減ってきたのは、義理チョコにしろ配りまくれると言うものではないし、「選定」が進んできているのではないかと密かに思ってみたりする。

我が小学校・中学校時代は、今から3040年前になるが、義理チョコはあまり一般化していなかった気がする。本命チョコが中心で、私はほとんどもらったことがなく、毎年この日は嫌な思いをしていたものである(中学生の最後にたった一個だけ机の中に入れられていたが、送り主は名無しさんだった)。まちがいなく、一年で一番嫌な日だったし、今年みたいに日曜日だったりすると嬉しかったように記憶している。

だから高校の時、初めてもらった「本命チョコ」は、天にも舞い上がるほど嬉しかったものであるが、今の子供達はそんな「ありがたみ」を感じるのだろうかと思ってみたりする。娘が作る手作りチョコも、近年は友チョコが主流で、渡す相手は仲の良い女の子の友達だったりしていたようである。チョコの文化も本命チョコ、義理チョコ、友チョコとかつてよりだいぶ変化している。

そういえば、先日たまたま見ていたバラエティ番組で、イケメンタレントが手作りチョコに挑戦していた。「男が何で」と思ったが、前後を詳しく見ていなかったので番組の意図はよくわからなかったが、男の「女性化」が進む昨今、「男がチョコを作り渡す時代」が来ても驚きはしない。かつて松本零士が漫画で描いた「男が化粧をし、ハイヒールを履く時代」が本当に来るのかもしれない。

私は、といえば、今はもうかつてのようにハラハラドキドキし、目を伏せてこの日が過ぎ行くのを待つこともなくなった。職場の女性と義理の妹からチョコをもらったが、かえって「お返し」の方が気になってしまい、素直に喜べないところもある。まぁそれでも大好きなチョコは、味わって食べるのだが・・・

今にして思えば、あの頃の「緊張感」が懐かしい気もする。今、あの頃に戻れたら、日頃もう少しクールに行動し、女の子の関心を集められるかもしれないと夢想したりもする。人生初のチョコは、誰がくれたのかわからなかったが、気がついたらいつの間にか机の中に入っていて、それに気がついた瞬間、動揺してしまい周りの目を気にしてよく確認できなかった。高校の時は、直接手渡されたが、誰かに見られているかもしれないということだけが気になった。ああいう体験は、もうできないだろうと思うと残念な気がする。

これからどういうバレンタインになっていくのだろうか。義理チョコぐらいはいいのだが、いくら時代が変わっても、男からはもらいたくないと思う気持ちは多分揺るがないだろう。職場で将来入社してくるかもしれない若い男性社員に、「義理」か「友」かわからないが渡されたらどう反応すればいいのだろう。妄想は尽きない。

ただ変わらないのは、チョコを愛する気持ちかもしれない。なんであれ、チョコに罪はない。どのような時代になっても、ずっと愛し続けることはできるだろう。時代が変わっても、それだけは変わらずに続くと思うのである・・・



2016年2月11日木曜日

プロセスか結果か

よくプロセスが大事か、結果が大事かという議論を聞く。
プロであれば結果が問われるのは当然で、したがって「頑張ったけれどダメでした」というのは認められないというのもそうであろう。「結果には至らなかったが、頑張った過程を認めてほしい」というのは、結果が出せなかった人の言い訳であるパターンだろう。だが、「プロセスは関係なく結果がすべて」と言い切ってしまうのにも抵抗はある。どちらが大事かと問われると、一概には言えないと考えている。

例えばプラモデルは結構好きであるが、作る過程は実は嫌いである。欲しいのは「完成品」であって、できれば完成品を買いたいところだが、それがない場合がほとんど。だから「やむなく」組み立てている。逆にジグソー・パズルも好きだが、これは作る過程が好きなのであって、完成したらもう興味はない。だからネットでできるジグゾー・パズルが登場するまでは、「完成品」の置き場に困るためむやみに買えないという悩みを抱えていた。例えは違うかもしれないが、結果もプロセスも、どちらにもそれなりに理由はある。

結果が出るとわかっていれば、どんなに大変なプロセスであっても耐えられる。だが、どうなるか分からなければ、その過程は精神的にもきつい。受験勉強しかり、仕事もしかりである。中小企業に転職した現在、安定した未来は見えていない。ただまだ見えない水平線の向こう側にあるものを信じて、目の前の大波小波を乗り越えているだけである。この方向で間違いはないはずと信じているが、誰もそれを保証してくれない。

波にのまれて海の藻屑となった場合、誰もよく頑張ったとは言ってくれないし、生活の面倒を見てくれるわけでもない。そういう意味では、「結果がすべて」である。ではだからと言って、プロセスは関係ないかというと、それは違う気がする。やるだけやったプロセスは、どこかで何かの形となって現れてくると思う。

娘も今は受験の真っ最中。結果はどうなるかわからないが、親の目から見てよく勉強していると思う。そのプロセスを見ていると、たとえ希望校に入るという結果が出なくとも十分だと思う。我が子に関しては、「結果よりプロセス」だ。プロセスがしっかりしていれば、それはいつか自分自身の生きる力となって、目先の結果ではない「結果」につながると考えている。

そう考えると、プロセスが充実していれば、それはいつかどこかで何かの「結果」に結びつくものなのかもしれない。目先の「結果」にはつながらなくとも、いつかどこかで「結果」に結びつくかもしれない。だが、目先の結果だけ追い求めていてプロセスを怠っていると、それは「目先の成果」だけに終わるのかもしれない。

結局、重視すべきは、長い目で見た時は「プロセス」と言ってもいい気がする。少なくとも、子供達に求めるのは「結果ではなくプロセス」である。そう信じて、自分自身の今のプロセスを楽しみ、娘のプロセスを応援したいと思うのである・・・