星野富弘
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その昔、「一瞬の幸福のために辛い人生を生きる価値はあるのだろうか」と考えた事がある。「禍福は糾える縄の如し」という言葉がある通り、人生は幸と不幸が混じり合っている。幸福だけの人生であればいいが、不幸な事もある。人によってその過少過多はあるが、その割合は10:0にはならない。どちらかと言えば辛い事の方が多い。大学受験は現役の時に志望大学に受からず浪人した。予備校に通わず暗い宅浪生活を1年間送った。受かるかどうかもわからぬ不安の中での1年間は、精神的になかなかきつかった。さらに1年と言われたらとても無理であった。
そんな思いをして合格を勝ち取ったが、喜びは一瞬。大学生活の日常の中に喜びは埋没していった。社会人になっても、仕事は人間関係を中心とした忍耐生活であった。プライベートでも好きな女の子に思いは通じず、「自分の人生ってなんだろう」と思う事、しばしば。そんな中だったから、「一瞬の幸福のために辛い人生を生きる価値はあるのだろうか」と考えてみたりしたのだと思う。その時の結論としては、「たった5分間だとしても、そのために生きる価値はある」と思ったのである。
翻って今はどうだろうかと思う。幸い、辛い事はあまりない。かと言って大きな喜びがあるというわけでもない。しいて言えば「凪のような生活」と言える。幸と不幸との間のジェットコースターのような人生からすると、凪いだ海のような生活は好ましいのかもしれない。幸と不幸の大きな山と谷の人生と凪いだ海のような幸も不幸もない人生とどちらがいいだろうかと考えてみる。年齢的なものもあるかもしれないが、大きな幸運とともに大きな不運がある人生とともにない人生とでは、ともにない人生の方が好ましいのではないかと思ってみたりする。
凪いだ海のような人生と言っても、よく見れば小さなさざ波はあるもので、日々の生活の中に小さな幸福を見つけたりすることが多い。週末はシニアのラグビーに通っているが、仲間と練習で汗を流すひと時は何とも言えない小さな幸福感を感じさせる。試合の緊張感、いいプレーができた時の満足感、試合に勝ってみんなと飲み、負けてみんなと飲む。そこでわいわいとくつろぐ瞬間は、小さな幸福感を味わえる瞬間である。
仕事でも、一応役員という立場で、自由に思ったようにできる。好き勝手と言ってもそこは仕事の範疇なのであるが、それでも自分で考えた事が会社の役に立ったり、自分の意見で会社が動いたりする。人に言われて言われた仕事をするよりも自分で思う通りにできる仕事はこの上なく面白い。「仕事が面白い」というと、奇異な目で見る人もいるが、仕事の面白さを知らないのは不幸だと思う。
その楽しい仕事でも、実は日々いろいろな問題が起こっている。業績が思うように伸びなかったり、採用が思うように上手くいかなかったり、現場のプロジェクトで問題が起こったり、新入社員が会社に来なくなってしまったりという事など、問題のオンパレードである。すべてが思い通りに行って、毎日ニコニコしながら仕事ができたらどんなにいいだろうと夢想するも、現実は酷である。
それでも過去2度も体験した突然の失職と再就職が決まるまでの不安の日々から比べればどうという事はない。「解決すべき問題=仕事」がある事こそが幸せだと思う。一瞬の幸せと言ったが、実は幸せとは「不幸でない事」かもしれない。住む家があって、仕事があって、家族がいる。「辛」いと思っていたが、よくよく老眼を凝らして見たら「幸」という字であったのかもしれない。幸とか不幸とかは、もしかしたら考え方の部分が大きいという事もあるかもしれない。
最近は瞬間的な幸福よりも、凪いだ海のような平穏な日々の方が好ましいように思うようになってきている。平凡な日々を送れることこそが、実は十分な幸福なのかもしれない。多少上手くいかないことがあったとしても、今日も平穏な1日を過ごせる事に喜びを感じられるようにしたいと思うのである・・・
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