2023年2月15日水曜日

うさぎとカメに思う

 今年は卯年とあって、いろいろなところでうさぎをたとえに出す例を見かける。最近目にしたのは、あるエクササイズ系のサービス。「カメさんとの勝負に負けた日からグダグタしてきたが、今年は卯年でもあり再びジャンプしようと思う」とし、一緒に跳びませんかとお客さんを誘う。なるほど、単なるありきたりの勧誘文と比べると、ちょっとクスッとさせるところもある一種物語風のテイストは感じが良い。うまく干支とかけているなと思う。

 うさぎとカメの昔話はあまりにも有名であるが、話はどうしても「才能があっても怠けたうさぎ」と「才能はなくても地道に努力したカメ」という対比で語られる。コツコツと真面目に努力することを教えるという意味では、子供に対する教訓として適切な昔話ではあると思う。されど、どうしても素直にその教訓を受け取れないところが私にはある。それはカメには絶対に勝てないうさぎの持っている「才能」である。

 確かにうさぎはカメを舐めて、途中で昼寝をする(そして寝過ごす)という過ちをする。しかし、もう一度やったらどうなるだろうか。普通に考えれば、さすがに今度はうさぎも油断しないだろう。そしてうさぎは油断しさえしなければカメに負けることは絶対にない。そこには圧倒的な差がある。そして一度油断して負けたうさぎは二度と油断はしないだろう。そして亀はどんなに努力しても油断しないうさぎには勝てない。

 力のはるかに勝る相手と戦う時、最初から諦めるのではなく、相手の油断という奇跡のような可能性もあると信じて全力を尽くすことは大事である。しかし、勝てたとしても1回のみである。うさぎだから油断はしたと言えるが、うさぎを狩るにも全力を尽くす獅子が相手であれば万に一つの勝ち目もない。これは才能のない者から見ると、悲しいまでの真実である。うさぎは獅子のように油断さえしなければいいわけである。負けた経験を持つうさぎの強さは圧倒的である。カメの勝利に溜飲を下げる子供たちは、どこまでこの冷徹な現実に気づいているだろうか。

 私がもしカメであったら、そもそも不利な陸上でのかけっこ競争などしないだろうと思う。もしも仮にしなければならないとしたとしたら、やはり全力を尽くすだろう。そしてうまく油断すれば良し。油断しなくて圧倒的な差で負けてもそれはそれで仕方ないと割り切る。そしてまた挑戦されれば受ける。何度負けても「負けるから嫌だ」と逃げることはしないだろう。逃げさえしなければ、勢い余ったうさぎが途中で足を挫いてリタイアするという幸運にあずかれるかもしれない。やる以上は勝つつもりで諦めずにやる。

 ただ、その前に自分の得意なフィールドでの戦いに持ち込むことは考えるだろう。負けたうさぎが悔しがってリターンマッチを申し出てきたら、「今度はあの島まで泳ぐ競争をしよう」と切り返す。チャンピオンには選ぶ権利がある。戦うフィールドを選ぶことは北風にも言えることだったが、カメにもまた然りである。「敵を知り、己を知り、そして地の利を知れば百戦危うからず」である。自分が勝てるフィールドを選ぶことは重要である。

 しかし、フィールドが選べなければ見るも無残。神様に元旦に山頂に集まれと言われた動物たちが競って山頂を目指し、巧みに牛の背に乗ったネズミが干支の1番を飾った。うさぎがなぜ4位だったのかはわからないが、馬や犬や猪といった強力なライバルを抑えての4位だからやはり実力はあるわけである。そしてカメは干支に入っていない。その他の動物たちと共に圏外だったのである。これが現実である。

 うさぎとカメのどちらがいいかと言われたら、私は迷いなくうさぎを選ぶ。油断さえしなれば実力を遺憾なく発揮できるわけであるからその方がはるかにいい。カメも相手の油断という偶然の産物に頼って勝ったはいいが、得意分野で戦うという工夫をしなければいつまで経っても勝つことはできない。競争時の状況は知らないが、何も考えずに勝負に臨んだとしたら、努力はすべて無駄に終わることになる。陸上でうさぎとかけっこをするという事は、どんなに努力しても報われる可能性は低い。努力の方向も大事である。

 考えてみれば、子供向けのたわいない昔話ではあるが、いろいろと示唆に富んでいる。常にそこからどんな事を学べるのか、あるいは考えられるのか。つまらないことのようだが、そういうつまらないことを大事に考えたいと思うのである・・・

Franz W.によるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 



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