【原文】
子曰、「德之不脩、學之不講、聞義不能徙、不善不能改、是吾憂也。」
【読み下し】
子曰く、德之脩まら不る也、學之講まら不る也、義しきを聞いて徙る能は不る也、
善から不るを改むる能は不る也、是れ吾が憂ひ也。
【訳】
先師がいわれた。
「道徳が身につかないこと、学問が進まないこと、正義を聞きながら実行できないこと、善くない事柄を改められないこと。これらが私の心配事である。」
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さすが、というのだろう。孔子は道徳や学問、正義といった実践に心を砕いていたようである。普通の人はなかなかできるものではないし、そもそも実践しようなどと思うだろうかと考えてしまう。誰もが身につけないといけないということは理解していると思うが、そのように実践している人は少ないと思う。学問にしても正義にしても然り、である。ただ、時折、ふとした時にそんなことを実践している人たちを目にする。
先日のこと、通勤電車の中で例によって本を読んでいた私は、目の前の席が空いたので何も考えずに(意識は読んでいる本に集中しているのである)座ろうとした。すると何やら脇腹を突いてくる人がいる。見れば隣の隣に立っていたおじさん(私よりも年上のようだった)が、私とおじさんの間に立っていた女性のバッグを指差すのである。つられてバッグを見た私は、そこにマタニティーマークのバッジを認めた。「あぁ、そういうことか」とわかった私は、その女性に席を譲った。
言い訳ではないが、読書に気を取られていた私は隣に立っていた女性になど、ましてやバッグのマタニティーバッジになど気づくはずもなかったが、おじさんはそれに気づいていて、たぶん気にしていたのだろう。改めて見てみると、その女性の前には私よりも若いサラリーマンが座っていたし、その隣には若い女性が座っていた。私よりもその人たちの方が席を譲るに相応しいが、たぶん気づいていなかったのだろう、席をゆずる気配すらなかった。朝の通勤電車は寝ている人も多い。ほんのちょっとした譲り合いの気持ちもあまりないように思う(ちなみにそこは優先席であった)。
社会人になれば勉強などする必要もないし、する気持ちもないという若者が多いような気がしている。若者に限った話ではないが、勉強はもう学生時代に(というより受験の時に)やったからいいと考えしまっているのだろうか。資格を取る人などは勉強をするのだろうが、そうでもない人は自己研鑽で勉強するのだろうか。私も資格取得では勉強もしたが、最近では特に何か勉強をするということもない。しかし、そもそも社会人の勉強とは何だろうかということにもよると思う。
私のもっぱらの関心事のひとつは仕事である。自分たちの会社をどのように発展させていくべきか。そんなヒントに対しては常にアンテナを張っている。欠かさず見ているテレビ東京の「カンプリア宮殿」や「ガイアの夜明け」はそんなヒントに溢れている。事業の苦しい時期を乗り切った話などは結構好きで、自分たちの会社にも当てはまるのではないか、応用は効かないかなどと考えてしまう。ビジネス書などもそんなヒントに溢れている。それらも勉強と言えば勉強である。
何かを体系的に学ぶという意味での勉強はしていないが、仕事に有益な考え方を身につける努力というものは絶え間なくやっているという自負はある。また、哲学や心理学などには興味があり、読書やネットでの講座などは見ている。これも勉強と言えば言えるのかもしれないが、趣味の世界の話を勉強というのかどうかは判別が難しい。さらに正義となると、これは実践しているという自負すらない。悪いことをしているつもりはないが、良いこともまた然り、である。
そもそも人が正義を振りかざすようになったら危ういという基本的な考え方が私にはある。正義とは微妙なもので、ある人にとっての正義が万人にとっての正義とは限らない。何が正義かは人によって違うとすら考えている。テロリストだってテロリストたちの正義がある。十字軍を筆頭に神の御名においてなされてきた戦争が歴史には数多ある。小さな会社の中ですら、正義は人の数だけある。今も新しい事に積極的にチャレンジしていこうとする考え方と、無謀な事はするべきではないという考え方とがある。どちらが正解か、正義かについての答えはない。
また、良くない事柄は改められないのが人間というもの。それは酒やタバコであったり、間食であったりするのかもしれない。私の場合、割と意思は固いので、やめようと思えばやめられる。ただ、やめようと思わないだけである。それでも法律に違反したり、人の道に反したりするような事は今のところない。これも何が良くて何が悪いというのを決めるのは難しい。その判断基準は人によって違っていたりする。
前勤務先の社長は、自分の都合で突然会社を売ってしまい、私を含む8名の役職員に退職金なしで解雇を申し渡した。会社を売った億単位のお金があったにも関わらず、である。これも酷い話ではあるが、元社長にとってはそれは「良くないこと」ではなく、「正義」に反することでもなかったわけであり、「モラル(道徳)」に反する意識があったかどうかはわからないが、少なくとも平然とそういうことをやれた訳である。
孔子のような人だから道徳や学問や正義の問題を真剣に捉え、それが心配事なっていたのだろうと思う。ただ、私のような崇高な理念もない凡人にとっては心を患うほどのことでもない。道徳心はせめて目の前に席を譲るべき人がいたら快く勇気を持って譲れる程度でいいと思うし、勉強も自分なりに必要な程度でいいと思うし、正義は自分なりにあっても人に振りかざすようなことをせず、良くない事柄はやめようと思うならやめればいいと思う程度にとどめたいと思う。無理せず自然体でそんな実践ができればいいなと思うのである・・・
JoeによるPixabayからの画像 |
【今週の読書】
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