常識とは、18歳までに身につけた偏見のコレクションである
アルベルト・アインシュタイン
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朝の通勤電車。
池袋から乗る丸ノ内線は始発だから、みんな並んで座ろうとする。
前の人たちはいいが、後ろの方の人たちは残りの席をめがけて殺到する。
その姿は浅ましく、そんな真似をするくらいなら立った方がマシだから、いつも立っている。
こんな人間にはなりたくないなと思うような例は街でよく見かける。
どうしても好きになれない人間はいるし、軽蔑したくなるような人間もいる。
どうしてそんな立ち居振る舞いをするのか、理解に苦しむ事も多いが、考えてみればその人にとってみればそれが普通の事。その人にとってみれば、それが当然の考え方なわけだし、もしかしたら私の事を軽蔑すべき人間と思っているかもしれない。
価値観は人それぞれだとよく思う。
私は親に幾度となく、「常識がない」と言われてきた。
ただ、私にはそんなつもりは毛頭ない。
いつも言い争うと、言い負かすのは私の方だ。
なぜ言い負かせる事ができるかというと、私の言い分の方が「筋が通っている」からだと思うし、常識外れはどっちだという思いもある。
しかしながらどっちもどっちなのだろう。
アインシュタインの言葉は実に的を射ていると思う。
みんな自分こそが正しいのだ。
そしてその「正しい目を通して」世界を見ているのだ。
外出する時に、一生懸命姿見を見てチェックしている人は、自分の基準に照らして、人からおかしく見えないかをチェックしている。
私は姿見こそチェックしないが、これでいいやと選んだ服装で外出しようとすると、「その恰好は一人で出掛ける時にして」と妻に冷たく言われる時がある。
その原因は大概わからないが、従っておく方が無難だという事だけはわかる。
しかし、行動についてはそれを映す鏡はない。
だからみんな自分の行動がどう世間に映っているかわからない。
内側から見る自分は常に正しい。
しかし、外側から同じように見えているかは難しい。
そこに大きなギャップがある。
野村監督は、「評価は人が下したものこそ正しい」と本に書いている。
自分の偏見というフィルターを通していない、外側から見た自分の姿だからなのだろう。
褒められれば嬉しいし、批判されれば腹も立つ。
悲しいかな、自分もそんな典型的な人間だ。
いつも外側から見える自分の姿を意識していたいと思うが、心の中の思いにかき消される事しばしば。言うは易しなのだ。
口は一つだが耳は二つ。
親に対する反論もだが、「2つ聞いて1つ話す」のがちょうどいいそうだ。
そんな事をあらためて意識したいと、この頃思うのである・・・
【本日の読書】
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