子曰。非其鬼而祭之。諂也。見義不爲。無勇也。
子曰わく、其の鬼に非ずして之を祭るは諂いなり。義を見て為さざるは勇無きなり。
【訳】
自分の祭るべき霊でもないものを祭るのは、へつらいだ。行なうべき正義を眼前にしながら、それを行なわないのは勇気がないのだ
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今回は2つの言葉が出てくるが、前半よりも後半の方が日本では有名である。それはまさに我が国の国民性の表れのように思える。前半は死者に対する態度だが、我が国では死者は敬うという方向である。故に自分の祖先と関係なくても一定の敬意は払う。「バチが当たる」という感覚かもしれない。「祭る」程度にもよるだろうが、「へつらい」とまで言わなくてもいいのではないかという気がする。
それに対して、後半の言葉はとても有名である。寺子屋で武士の子供が一生懸命暗唱しているイメージがあるが、武士道の精神にマッチしていると思う。そしてそれは武士道のみならず、現代に至るまで共感できる感覚である。おそらく、この言葉に反対する人はいないのではないかと思うくらいである。ただ、「実践」となると必ずしもそうではないと思う。
何を持って「義」とするかは議論の余地があるかもしれない。何もいじめられている子を助けるとか、チンピラに絡まれている女性を助けるとか、そういう英雄的なものでなくても、例えば電車の中で席をゆずるようなことも当てはまると思う。身近なところでは、いつも話を聞いてあきれるのは、子供の学校での役員決めである。誰も手を挙げなくて、なかなか決まらないらしい。自分の子供が通う学校なのだから、私ができるものなら喜んで手を挙げるのだが、「面倒だ」と思うのだろう。「勇」は何も勇気の意味だけでなく、「心意気」の意味もあると解したいのである。
また、仕事でいつも感じることだが、「自分の意見を言う」と言うのもこれに当たると思う。会社全体での動きについて、人は誰でも多少なりとも自分の意見は持っているだろう。社長が、あるいは上司がやろうとしていることに対し、「違うのではないか」と思ったらそれをきちんと言うのもこれに当たると思う。現に中小企業ながら我が社でも自分の意見を言わない(言えない)人がいる。たとえ反対でもそれに対して意見は言わず、黙って従うのである。そして後で、「自分はいかがかと思う」とこそっと呟くのである。そう思うのなら、なぜその時言わないのか。まさに「勇なきなり」ではないかと思う。
あるいは、先の役員決めと一緒で、「面倒だ」と思うのかもしれない。社長の出した方針に対し、反対意見を出せばまず議論となる。自分なりの意見をまとめて話すのは結構大変だし、その結果意見が通っても、「ではお前がやれ」と言われたらそれを受けないといけない。私はいつもそう言う覚悟を持って発言しているし、別にそれが苦になるわけではないのであるが(まぁたまにめんどくさい時はあえて黙っている)、人によってはそれが苦になると言うのかもしれない。
「めんどくさい」と思うから言わないと言うのも、ある意味やむを得ないケースもある。人によって仕事に対する姿勢は様々だし、「ほどほどにやっていたい」と言う人もそれはいるだろう。責任のある地位についていればそう言うことは許されないが、地位によっては仕方ない人もいるだろう。社長に近い人であれば、そういう意識を持っていたいものであるし、それこそ「勇」なのかもしれない。
【今週の読書】