2019年11月25日月曜日

論語雑感 里仁第四(その9)

〔 原文 〕
子曰。士志於道。而恥惡衣惡食者。未足與議也。
〔 読み下し 〕
(いわ)く、()(みち)(こころざ)して、悪衣(あくい)悪食(あくしょく)()ずる(もの)は、(いま)(とも)(はか)るに()らざるなり。
【訳】
先師がいわれた。
「いやしくも道に志すものが、粗衣粗食を恥じるようでは、話相手とするに足りない」
************************************************************************************

 「朝(あした)に道を聞かば、夕に死すとも可なり」という程真理の探究に情熱を傾ける孔子にとって、何を着るか何を食べるかという問題なんて些末なことで、大事の前の小事であって、そんなことに気を取られていてどうするということなのであろう。実際、そういう考え方はよく理解できる。今は大学ラグビーも最盛期であるが、私も学生時代、公式戦の前に合コンに行くのは「不謹慎」とされていた。精神を集中して臨まないといけない時に、そんな「チャラチャラ」したことをしている場合ではないという考え方である。

 たとえとしては適切ではないかもしれないが、いやしくも道を極めるという大事を成し遂げようとしている身であれば、それ以外のことに気を取られていてはいけないという意味では同じようなものだと言える。割と日本人は真面目でストイックなところがあるから、こういう考え方はしっくりとくるのではないかと思う。その一方で、「悪衣悪食を恥じる」ことがそんなに悪いことだろうかという考えもある。道を極めるという大事も重要だと思うが、だからと言って小事を気にしたっていいんじゃないかとも思う。

最初の大学受験に失敗し、高校を卒業したあと家で宅浪生活に入った私は、「110時間(ただし日曜日は5時間)」の勉強ノルマを決め、規則正しくストイックな浪人生活を送った。それこそ「脇目もふらず」である。受験が終わった瞬間、「もう同じ生活はこれ以上できない」と思うほどやり尽くした。そんな生活を送った身からすると、今現在同じ浪人生活を送っている娘の勉強ぶりは優雅である。好きなアイドルのコンサートにも行っている。目指しているところが違うというところもあるが、それでもいいと思っている。考えてみれば、自分だって行こうと思えばコンサートにだって行けたのである。心にそんなゆとりがなかっただけで、時間的なゆとりは捻出しようと思えば十分捻出できたと思う。

1つのことを集中してやるというのももちろん望ましいが、それはその人の性格にもよるだろうし、むしろ私は今はそういう考え方に近い。道を極めるのも大事だが、1日は24時間もあるし、そのすべてを道につぎ込むことは困難なわけで、食事もすれば睡眠もとる。風呂にも入るし、トイレにもこもる。どうせ食べるなら美味しいものを食べたっていいわけであり、裸で過ごすわけにはいかないから服を選んだっていいだろう。「あれもこれも」求めたって必ずしも「二兎を追うもの」にはならないと思う。

今も休みの時に仕事のことを考えるのはしょっちゅうあるし、仕事中にプライベートなことを考えたりしたりすることもまた然り。仕事の面白いアイディアが思い浮かぶのはたいてい風呂の中である。ファッションには興味がないし、それほどグルメでもないから悪衣悪食を気にしないところはあるかもしれないが、週末の映画やラグビーなどについては熱意を持っている。孔子が道を目指すスタンスには及ばないだろうが、仕事は下手をすれば生活が崩壊するリスクもあり、真剣に携わっている気概は持っている。一意専心もいいがあれこれ並行するのもいいのではないかと思う。

 聖徳太子は一度に10人の話を聞いたという。そんな芸当はとてもではないが無理としても、一度に1人ずつなら十分可能である。ならば時間を工夫して11人の話を聞くようにすれば聖徳太子に追いつける。道を極めるのは登山のようなものだとしたら、ひたすら歯を食いしばって頂上を目指すやり方もいいかもしれないが、途中で立ち止まって景色を楽しむゆとりがあってもいいじゃないかと思う。道を定めたらそれを見失うことなく、されど道中の景色も楽しむ。そんな道の目指し方があってもいいと思うのである・・・


  
PexelsによるPixabayからの画像


【本日の読書】
 
  
   

2019年11月21日木曜日

今朝の思考

人間はいつもいろいろなことを考えているとよく思う。今朝もそんなことを実感した。いつもは朝からあれこれと考えなくてもいいように、同じ時間に家を出て、同じ電車に乗り、同じ時間に会社に着くようにしている。なんでも哲学者のカントも毎日決まった時間に決まったコースの散歩を欠かさず、時に周囲の人はそれを時計代わりにしていたという。大哲学者と同じというつもりはないが、ルーティーンワークは考えなくてもこなせるという利点があり、私も通勤に関しては何も考えずに機械的に移動し、思考はその分読書に集中している。

しかし、今朝は人身事故があって読書に集中できなくなってしまった。最寄駅からターミナル駅までどう行くか。そこから先どうするかを突然考えなければならなくなったのである。そんな時、助かるのは鉄道会社のしっかりとした案内である。今朝は復旧時間がすぐ迫っていたのでそれを参考にした。振替輸送の手続きもJRと連動出来ていて、定期券を機械にタッチするのは乗換駅ではなく、降りる駅でするようにとスムーズに開札を通らせていた。一部手抜かりはあったが、まぁ今朝は合格点だと思う。

鉄道会社もこれだけ人身事故が多いのだからもう少しスムーズにできないものだろうかといつも感じている。何よりとにかく早目の情報提供。その場に着いて人だかりの改札付近で情報を求めてうろうろするのは最悪である。付近の鉄道各社で電車の中から早めに放送して案内してほしいものである。復旧の見通し、振替輸送の案内、今朝みたいにJRと私鉄の枠を超えた連携など、素人目から見ても工夫の余地は大いにある。それにそもそも人身事故を防ぐ工夫である。

最近は、ホームドアの設置が進んでいるが、これは偶然の「事故」には効果的だと思うが、自殺は防げないと思う。自殺を防ぐ一番の方法は、家族に多額の賠償金を請求すると声高らかに宣言することだと思う。天涯孤独の人には効果がないかもしれないが、大抵の人は家族には迷惑を掛けたくないと思っているだろうし、せめて保険金を残したいと思っている人には効果的だろう。もちろん自殺そのものは防げないが、少なくとも電車への「飛び込み」は防げる。それで人身事故が減れば利用者としてはありがたい。鉄道会社の人たちだって嫌な思いをしなくて済むだろう。

こんな事を書くと不謹慎に思われるかもしれないが、私は自殺を否定しない。死にたい人は死ねばいいと思っている。その人の人生だし、その人の苦悩を知らない周りがとやかく正議論を振りかざすべきではない。もっともそれが家族や親せきや友人だったら思いとどまるように説得はするだろう。世の中、考え方1つで見方も変わるものである。それで考え方が変わって生きる方向で考えられるなら、そういう手助けは積極的にしたいと思う。だが、どこの誰とも知らない人ならそこまでする義務はない。せめて人に迷惑をかけないような方法を考えてほしいだけである。
 
 1つのアイディアとしては、国として自殺希望者に場所を提供したらどうだろうかと思う。希望者はそこへ行って申し込みをする。するとまず専門のカウンセラーが出てきて事情を聞く。その上で、生きていた場合のメリットを説き、まずは生きて問題を解決する方法を一緒に考える。23回通ってそれでもやむなしと判断したら「安楽死」を提供する。不治の病で回復の望みはなく、医療技術でただ生かされているだけのような人には朗報だろう(自分もその立場になったら利用したい)。いじめや借金問題程度なら解決策が十分提案できそうである。

 単に「自殺はよくない」と正義を振りかざすのは無責任である。中には自分のためではなく、自分が死んだ方が家族は幸せになれるのではないかということも実際にある。それを赤の他人が無責任に「生きていればいいことがありますよ」なんて言うことはできない。ならば周りの人に迷惑をかけず、スムーズに望みを叶える仕組みがあった方が、「三方良し」ということもある。いいアイデアだと思うが、実現は憲法改正より難しいだろうと思う。

 朝のひと時、人身事故で読書に集中できなくて、あれこれそんなことを考えたのである・・・




【本日の読書】