2025年8月21日木曜日

お盆に思う

 お盆と言えば、東京では7月だが両親の実家のある長野県では8月である。子供の頃、東京の自宅で母が迎え火を焚き、部屋にはお供えを飾り、送り火を焚いて一連の儀式を終えた。ご先祖様が戻ってくるという話を聞き、「どんなご先祖様なのだろうか」と想像を膨らませたものである。そして夏休みに入り、母に連れられて里帰りするとまたそこでもお盆であり、子供の頃はそういうものだと思っていた。お盆がなぜ全国一律同じでないのか。考えてみればおかしいのであるが、子供心にはそういうものだと素直に思い込んでいて不思議には思わなかった。

 なぜ東京と長野県ではお盆の時期が違うのか。調べてみれば、それは明治期に時の明治政府が旧暦から新暦に切り替わった当時、これを徹底させようとしたため、そのお膝元であった東京やその周辺の地域、都市部などは令に沿って対応せざるを得なく、新暦7月15日にお盆を行なうようになったと言われているそうである。何となく東京は地方出身者が多く、7月をお盆とすると里帰りできないから8月にしたのかという気がしていたが、そういう経緯があったようである。

 迎え火を焚いてご先祖様をお迎えし、来るときはきゅうりの「馬」で早く来ていただき、帰りは送り火を焚いて茄子の「牛」でゆっくり帰っていただく。子供の頃は家で母がしっかりやっていたが、就職して家を出てからはそんな事をする事もなく(寮生活だったからそういう事を1人でやる事はなかった)、結婚してからは私も妻もそういう事は念頭になかったから一度としてやった事はない。それゆえ、ご先祖さまも我が家には来ていただいた事はない。当然、子供たちもそういう習慣を家で経験していないのでこの先もする事はないだろう。

 考えてみれば、豆まきはやっている。子供も小さい頃は元気よく「鬼は外!、福は内!」とやっていた。クリスマスにはクリスチャンでもないのにツリーを飾っている。豆まきよりもクリスマスよりもお盆の方が重要な気もするが、なぜ私も妻もそういう事をやらなかったのか、考えてみればおかしい。豆まきもクリスマスも子供にとっては遊び心が満たされて楽しいからかもしれない。そう言えば祖父母の家に行くと祖先の写真が飾ってあったが、我が家にはない。そうしたところから「祖先」に対する思いも違うのかもしれない。

 さらに考えてみれば、母方の祖母は私が生まれる前に亡くなっている。母にとっては自分の母親であり、また、母の祖父母も亡くなっていたから、祖先とは自分の身近な家族という思いがあったのかもしれない。逆に私には最後に祖父が亡くなったのは30歳の時であり、祖先とは会った事もない人たちという感覚がある。そういう意味では我が家の子供たちはまだ祖父母が3人健在である。実際に身近に接していた祖父母であれば、もう少し死者に対する思いも違っていたのかもしれない。

 映画『リメンバー・ミー』は、メキシコの「死者の日」の祝祭を背景にしたものであったが、ところ違えど一年に一度亡くなった祖先が帰ってくるというコンセプトは同じである。調べたわけではないが、同じような行事は他の国、地域にもあるかもしれない。亡くなった身内に会いたいという思いは万国共通だろうし、目には見えないけど帰ってくると思いたい気持ちから始まったのだろう。ただ、お盆に祖父母の家に帰るのは、「祖先が帰ってくるから」という事で家族が集まるのは理解できる。しかし、東京の家には祖先も来たことがないわけであるし、何となくしっくりこないものがある。

 そういう理屈はともかく、亡くなった親族を思う気持ちは私にもある。私には産声を上げることなく亡くなった姉がいるというし、30歳の時になくなった祖父との思い出は多い。ただ、そういう気持ちは「来てもらう」よりも「こちらから行く」気持ちが強い。なので墓参りの方が気持ちが入りやすい。結婚した年の夏休み、妻を連れて墓を守る伯父の家にはよらずに(結婚の報告のため)祖父母と姉の墓参りをしたものである。目に見えぬ祖父が家に来るというよりも、物理的に骨が埋まっている墓の方がしっくりくる。

 いずれにせよ、亡くなった親族を弔う気持ちは私にもあり、実家に行けば両祖父母の仏壇にご飯を供えて線香を立て、手を合わせる。お盆でなくても毎週やっている。来るとか来ないとかではなく、両祖父母に対する気持ちから抵抗なくやっているが、個人的にはそれでいいと思う。亡くなった者に対する気持ちは、送り火やきゅうりと茄子という形でなくても十分あるし、それでいいのではないかと思っている。この先もお盆の行事をやる事はないだろうが、だから祖先をないがしろにしているというつもりはない。

 実家の母はこの頃認知能力があやしくなり、今年のお盆は迎え火は焚いたが、送り火は焚来忘れたと嘆いていた。きゅうりの馬と茄子の牛はどうでもいいらしい。「まだ帰っていないならそれでもいいんじゃない」と慰めたが、大事なのはどう思うかである。亡くなっても折に触れて思い出す事が供養のようにも思う。子供の頃、お盆で祖父母の家に親戚一同が集まって賑やかだった。少子化も進んでそういうお盆は少なくとも私の親族ではなくなっている。ご先祖様は寂しいかもしれないが、両祖父母とは実家の仏壇を通じて繋がっていると考えたいし、それでいいと思うのである・・・


jinsoo jangによるPixabayからの画像

【本日の読書】

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