2018年12月12日水曜日

追う恋、追われる恋

先日のこと、車に乗っている時に何気なくつけていたラジオで、「追う恋と追われる恋、どちらが幸せか」と言う質問に対し、リスナーの回答を募るということをやっていた。なんとなく追うのは男で、追われるのは女というイメージがあるが、それは中高年の感覚なのだろう、リスナーからの意見では、結構追う女も多くて、これも時代なのかと感じながら聞いていたのである。

自分はと言えば、間違いなく「追う」タイプであるが、そんな自分に蘇ってくる記憶は追って追って追いつけなかったものばかり。それなりに付き合った女性は、思い起こしてみればみんな追われた方だと気がついた。そう言えば、自分たちの時代もバレンタインなど、女性からアプローチするのもよくあったなぁと思い出す。追うより追われる方が楽ではあるが、そこにはどうしても「妥協」というものが入る気がする。やっぱり「追う」方だろうなぁと今でも思わずにはいられない。

初めて女の子に告白したのは、小学校6年の時だ。これはあっさりと振られてしまった。それからあつものに懲りて膾を吹くようになってしまい、以後は大学まで自分から行くということをしなくなっていた。もちろん、意中の相手がいなかったわけではない。その反動から、大学時代は合コンにせっせと参加し熱心に追いかけたが、惨敗の日々。社会人になると、やはり責任というものが生じるので、数撃つわけにはいかなくなって慎重になったから惨敗の数は減ったが、その分追いきれなかった無念の度合いは大きい。

慎重にとは、真剣にということと同意だが、マメに電話をかけたり、デートには趣向を凝らして花束を持って行ったりしたものである(それもすぐ渡すとわざとらしいからなかなか渡さなかったりしたのである)。自作の童話をプレゼントしたこともあるが、結局のところそんな小手先のテクニックなど通じず、想い届かず無念の敗退となった。今でもうまくいっていたらと夢想する。もしもあの頃に戻れたなら、(内緒の話だが)もう一度今度は死に物狂いで再チャレンジするだろうと今の我が身を振り返って思う。

そんな妄想をしつつ、リスナーのいろいろな意見を聞いていて、ふと思う。追うのと追われるのは表裏一体ではないかと。例えば一つの幸せな恋があったとする。男は惚れた女を追いかけてその恋が成就し、2人は幸せ一杯だとする。しかし、それは男から見れば「追う恋」であるが、女から見れば「追われる恋」である。その時、2人に同じ質問をしたら、男は「追う恋がいい」と答えるだろうし、女は「追われる恋がいい」と答えるだろう。どちらがいいかと問われれば、理論上その答えは等しくなるはずである(あくまでも双方「幸せ」だと感じている場合だが・・・)

理論上はどちらの答えも同数になるが、それでも質問されれば、やっぱり自分は「追う派」である。理論上同じと言っても、どちらの立場に立つかは選択である。その選択に際し、自分は「追う」方を選ぶのである。それはなぜかと言えば、やはり主導権は常に自分に持っておきたいからであり、何よりもその方が後悔がないと思うからである。安易な妥協をしてしまった場合、その後悔は後を引く。それは実体験だけになおさら強くそう思うのである。

ラジオはいつの間にか次の質問に移っていた。
「別れる時にメールや電話で伝えるのはアリ?」。
これもまたじっくりと語れるテーマだと思いながら、苦い思い出を噛み締めていたのである・・・






【本日の読書】
 
    
     


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