2025年11月27日木曜日

宇宙の話

ボイジャー1号、地球から「1光日」の距離に2026年11月到達へ
 
1977年9月5日に、木星と土星を接近探査するために打ち上げられた宇宙探査機ボイジャー1号は、その役目を全うした後はそのまま外宇宙へと飛び出し、星間空間の様子を探る星間ミッションへと移行、現在も遙か彼方の宇宙を時速6万1198.19km(秒速17km)の猛スピードで遠ざかりながら、地球へ観測データを送り続けている。そして、このボイジャーの地球からの距離が、いまから1年後の2026年11月ごろに「1光日」に到達することがわかった。1光日とは「光/電波が1日に進む距離」のことだ。

********************************************************************************************************

 子供の頃、宇宙に興味を持ってよく学校の図書室で宇宙の本を借りたり、プラネタリウムに連れて行ってもらったりしたのを覚えている。東京では夜空の星を眺めるということはあまりできないが、長野県にある祖父母の家に行った時などは、東京とはまったく違う夜空に煌めく星々に見入ったものである。オリオン座などの星座は東京でも見られるが、星々の間に浮かび上がるオリオン座というのは東京ではお目にかかれない。今でも祖父母の家に行くとやっぱり夜空を見上げてしまう。

 48年前に打ち上げられたボイジャーがなんと今でも活動していて、地球にデータを送ってきているという。時速6万kmと言われてもピンとこない。かつてソ連の戦闘機ミグ25の最高速度がマッハ3(3,600km)だったと記憶しているが、その17倍の速度となるわけで、たぶん重力やら空気抵抗がある地球上では出し得ない速度であろう。そんな速度で休みなく地球から飛び続けて48年(まあ、太陽系内ではいろいろと寄り道はしたであろうが)。ようやく1年後に地球から「1光日」の距離に達するのだとか。

 思わず見直してしまった。「光日」なのかと。宇宙の単位でよく聞くのは「光年」である。光日という事は、1光年の1/365という事である。小説『三体』で描かれているのは、4光年先の恒星系アルファケンタウリから来る宇宙人の話。4光年だとざっくりボイジャーでは17,000年かかることになる。しかし、宇宙の距離では1光年など可愛いもので、銀河系の大きさは直径が10万光年だということだし、アンドロメダ銀河までの距離は250万光年だという。「ボイジャーでは」などと言い出したらわけがわからなくなるスケールである。

 さらに地球から最も遠い銀河までの距離は138億光年だという。一体どれだけ宇宙は広いのだろうか。子供の頃、無限に広がる大宇宙に思いを馳せたのもそんな計り知れないスケールに魅了されたからなのかもしれない。しかし、大人になって思うのは、「それって本当なのか?」という猜疑心。なんでも疑うのはよくないが、それでもどうしてそんな距離を測れるのかという疑問は拭い去れない。調べてみると、近い距離は地上と同じ三角測量であるが、遠い距離は光(明るさ)なのだという。どちらの方法も考えてみれば凄いことである。

 三角測量も夏と冬とで地球の位置が違うことを利用してのものであるが、星の一つ一つを見失わないようにするだけでも大変だと思う。ましてや明るさなどもである。それにそんなに遠い星からの光が届くというのも不思議である。アニメドラマ「宇宙戦艦ヤマト2199」では、地球から8光年離れたヤマトが望遠鏡で地球を見るシーンが出てくる。8光年先で見る地球はまだガミラスの侵略を受けて赤く焼けただれる前の8年前の地球なのである。そんな望遠鏡が実現可能かどうかは別として、理論的には成り立つエピソードである。

 もしももっと高性能な望遠鏡ができれば、距離と位置をうまくあわせれば過去の地球の様子を見ることができるわけである。地上の様子まで見ることができる望遠鏡であれば、日本軍の真珠湾攻撃もリアルタイムで見ることができることになる。もっとも恒星と違って光が届くかどうかという問題もある。恒星であっても何億光年も離れているのに光が届くというのもにわかには信じがたいものがある。地上の大気に包まれた環境と単純に同一視はできないが、果てしなく広がる宇宙空間の中で恒星の光が何億光年も届くというのはどうも想像しにくいものである。

 恒星もまた大きさは一定ではなく、まちまちのようである。観測史上最大のものは我らが太陽の2,150倍だという。土星の軌道まですっぽり入る大きさと言われてもピンとこない。そのくらいになれば光もかなりの距離に届きそうな気もする。そしてさらに「宇宙に果てはあるのか」などと考え出したら思考の泥沼にハマりそうな気がする。我らが太陽系や地球やましてや人間など、もしも宇宙スケールの神様がいたとしたら、きっと人間は目にも止まらないほど小さな存在であろう。

 クヨクヨと悩みたくなるような事があった時、宇宙のことを考えるといいかもしれない。我々はホコリよりも小さな存在で、そんな中で悩んでいることなど小さ過ぎてどうでもよくなるかもしれない。近眼と東京という二つの障害に阻まれて夜空の星をゆっくり眺めるという機会はあまり取れないが、それでも祖父母の家の庭から見た星々が煌めく夜空が時折恋しくなる。じっと眺めていれば、いつまでも眺めていられそうに思う。そうして物思いに浸る。そういう贅沢な時間をたまには持ちたいなと思うのである・・・


Mattia VergaによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  書いてはいけない - 森永 卓郎  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2025年11月24日月曜日

財務戦略を考える

 9月決算の我が社は前期の決算も無事終え、すでに新しい期に入っている。大まかな方針も中期経営計画も立案し、あとは財務戦略の立案を頼まれている。さて、どうしようかとここのところ頭を悩ませている。我が社は上場企業ではないのであまり市場を意識することはない。それでも銀行からお金を借りる以上はそれなりの決算をあげないといけない。つまり毎年一定レベルの利益を計上しないといけない。「税金を払いたくないから」と赤字決算にしていては銀行からお金を借りることはできない。銀行からお金を借りようと思ったら、利息は払わないといけないし、税金だって払わないといけない。

 利益の元は売上であるが、そればかりを追ってもいけない。売上至上主義の会社は社内もギスギスするし、ストレスは蔓延するし、とても「いい会社」とは言えない。しかし、売り上げが上がらないと給料もボーナスも上げられない。給料もボーナスもずっと変わらない会社がいい会社かと言うとそれは絶対に違う。「至上主義」に陥ってはいけないが、売上計画を立て、それをしっかり追求していくことはやっぱり重要である。それに売上だけ追求していればいいかというとそうではない。ざるのように支払いが続けば後には残らない。利益も重要である。

 我が社では粗利(売上総利益)も重視するように呼び掛けている。我が社の場合、現場のエンジニアの給料が原価に入り、外注費も原価に入る。そうした原価も睨みながら現場の運営をやってもらわないといけない。ダラダラと仕事をして残業が増えれば原価も上がる。残業を抑制することは原価管理的にもワークライフバランス的にも好ましい。「粗利率目標」は財務戦略上の目標の一つに掲げたい。そうして一定の粗利率が確保できれば、あとは販管費を抑えることになる。DXブームで色々なサービスが登場しているが、大事なのは「費用対効率」であろう。

 今はいろいろなサービスのセールスの電話がかかってくる。確かにそれらのサービスは便利である。しかし、同時に当然ながら費用がかかる。手間暇の軽減と費用負担とを比較した上で選択しないといけない。例えば請求書を自動作成してくれるサービスなどは確かに便利で手間暇を軽減してくれる。しかし、請求書の発送件数が月に数百件であればいいが、20件にも満たなければエクセル管理のまま手作業でやった方が余計な費用はかからない。利便性よりも販管費の抑制の方が効果は大きい。

 労働分配率などは指標としては面白いが、一般社員にはわかりにくい。それに比率も大事だが、実際に「いくらなのか」も重要である。我が社はなるべく社員への還元をして行こうという方針である。となると労働分配率は高くなるし、人件費率も然り。人件費を上げれば利益は抑制される。利益を上げようとすれば人件費は上げられない。ここはどうしても両立できないトレードオフの関係にある。唯一の解決策は売上(それもできれば一人当たりの売上)を伸ばしていくことしかない。しかし、あまり売上に力を入れすぎると「売上至上主義」になってしまうかもしれない。

 結局、大事なのは「バランス」なのであるが、それをどう財務戦略に落とし込んで表現していくかとなると難しい。「人件費」は「原価」であり、「販管費」であり、それは企業会計上「コスト」に分類される。人件費を「コスト」として考えると、それは「抑制すべきもの」となる。しかし、我が社は人件費を「コスト」とは考えたくはないという主義である。子供のいる家庭で、子供の食費や養育にかかる費用が抑制すべき「コスト」かと言えばそんなことはないだろう。もちろん、収入との関係もあるが、子供の笑顔にお金を惜しむ親は(普通の感覚では)いないだろう。

 上場企業でないことはこうした考え方を貫いていくには誠に具合がいい。自分たちの考えに沿った行動を(「バランス」を考えながらだが)追求していける。「自分たちはこういう会社だ」ということを自由に主張していける。「利益を出しながら」という制約条件をこなしながら、自分たちの考えるいい会社をめざす。表現は難しいが、頑張って上手くまとめていきたいと思うのである・・・


PexelsによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2025年11月21日金曜日

迷惑メール雑感

 毎日たくさんの迷惑メールが送られてくる。個人で利用しているYahoo!メールは割と迷惑メールフィルターが効いていて、受信箱には入ってこないのでストレスは少ない。しかし、会社で使用しているビジネス用のアドレスはOutlookにそういう機能がないのかすべて入ってくる。感覚的に1日あたり100件近いメールを受信するが、その大半が迷惑メールである。いったい何のためにと思うも、その目的はいろいろなのだろう。ランサムウェアに感染させるという恐ろしい目的もあるだろうし、金銭を詐取するという目的もあるだろう。悪意はなくても宣伝を狙ったものも入っている。毎日大量に削除しながら送る方の考えに思いを巡らせてみる。

 例えば「株式会社ジャックス 個人情報確認のお願い」なんていうのは、フィッシング詐欺なのだろう。あわよくば氏名や住所、クレジットカード番号、パスワードなどを入力させて盗み出すものかもしれない。当然ながら株式会社ジャックスの名を語った詐欺メールである。「NINTENDO 継続課金の解除について」なんてものも同様かもしれない。「東京電力エナジーパートナー 未払い電気料金のお支払い方法について」などは直接お金を振り込ませるのかもしれない。「PayPay 今すぐ!5000円のPayPay残高ゲットのチャンス」なんてのもある。

 こういうものに引っ掛かるほど愚かではないが、どういう流れになるのか、ギリギリのところまで見てみたいという思いからクリックしてみたい誘惑に駆られる。さすがに素人が下手にクリックするとまずいのでそれはやめているが、誘惑はかなりある。何とかブロックしたいが、郵便ポストにチラシを入れるのを防げないようにメールを防ぐのも難しいのだろう。メールアドレスなど適当にアルファベットを組み合わせて片っ端から送っているだけだろうし、人間がやるわけではないからアドレスを変えても無駄だろうと思うから為す術もない。

 一方で、営業メールの方は相手に悪意はない。悪意はないからいいかと言えばそうではない。自宅の郵便ポストに入れられるチラシと同じで、たいていはこちらにとって必要のないものである。しかし、たまに有用なものもあるから見ないというのも具合が悪い。それでもタイトルでどんなものかわかれば中身をみなくてもいいのですぐに削除できる。HPなどから一方的に送り付けるのであれば、せめてそういう工夫くらいはしてほしい。営業目的でメールを送る場合、気を付けないと「諸刃の剣」になると思う。

 以前、毎日営業のメールマガジンを送り付けてくる会社のとある営業マンがいた。メールマガジンの場合、名刺交換などした際、勝手にメールを登録されてしまったりするが、それでも解除方法があれは面倒ながら解除できる。ところがその営業マンのメールマガジンはなぜか解除ができなかった。イライラしていたところ、偶然その営業マンから営業の電話が掛かってきた。名前を聞いた瞬間、それとわかったので先手を取って「いつもメールを送っていただきまして」と伝え、相手がそれを好意と受け取った感じのところへ「解除できなくて迷惑しています」と伝えた。当然ながら相手はセールスどころではなかった。彼は自分の「悪評」を毎日届けていたのである。

 いったいそのメールの目的はなんなのか。営業目的であれば相手に好意を持ってもらわないといけない。ただ闇雲にメールを送り付けても、それが相手に喜ばれているかを考えないと逆効果にしかならない。しかし、それを送り手の方でわかるかと言えば難しいので、せめてタイトルで削除する判断ができるとか、メールマガジンであれば(簡単なステップで)解除できる仕組みは必須だろう。「不要な場合はその旨メールをください」というのもダメである。こちらはその手間さえ惜しい。不要なメールを毎日見る苦痛は、その会社に対する嫌悪感を育成することになるのだと思ってほしいところである。

 メールは手軽である。現物の営業レターであれば、封筒に入れ切手を貼ってポストに投函するという手間がかかるが、メールならばクリック1つで多数の先に送れる。だから毎日熱心に送ればそれだけ仕事をした気になるのかもしれない。しかし、相手がそれを望んでいない場合、送れば送るだけマイナスの印象を与える事になる。先の営業マンみたいに、自分の悪評を毎日届けているとしたらどう思うだろうか。ちなみに、先の営業マンからのメールマガジンは翌日からピタリと止まった。止まったところで悪い印象が拭えたわけではない。私のところだけでなく、他への送付も見直していないと、かの営業マンは商売が難しいかもしれない。

 幸い私は営業が商売ではなく、せっせと営業メールを送る立場にはない。必要なメールのやり取りだけなので「迷惑メール」にはなっていないと思う。営業マンであれば迷惑メールを送っているつもりはないであろうが、受け取る方にしてみればランサムウェアや詐欺目的のメールと何ら変わりはない。少しでも効果的な営業ツールとして利用しようとするのであれば、そうした受け手側の気持ちを考慮してメールを送るべきだと思うのである・・・


Manfred RichterによるPixabayからの画像

【本日の読書】

 失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義







2025年11月16日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その16)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子在川上曰、逝者如斯夫、不舍晝夜。
【読み下し】

【訳】
先師が川のほとりに立っていわれた。「流転の相すがたはこのとおりだ。昼となく夜となく流れてやまない」

************************************************************************************

 「万物は流転する」と唱えたのは古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトス。現代でも通じる実に深い言葉だと思う。時間は常に流れており、時間の経過とともにあらゆるものは変化していく。それは川の流れも同様で、川のほとりに立ってその流れを見ていた孔子が感じたのもそんなことなのだろう。我が国でも平家物語で「諸行無常」が唱えられたが、同じ事だと思う。楽しいひと時も永遠には続かない。逆に言えば辛い時も長くは続かないのであるが、楽しい時が終わってしまう方が、残念感が強いように思う。

 それにしても川は不思議である。地上に降り注いだ雨が川になって流れるという理屈はわかるが、それが途切れる事なく(途切れるのもあるだろうが)流れ続くのは実に不思議であると思う。それは温泉が滔々と湧き出続けるのも同じであるが、少なくとも日本の大河川は日本の歴史が始まって以来ずっと流れ続けているわけである。理屈を説明されてもどうにも不思議が止まらない。そしてその流れは決して同じものではない。同じ水に見えても同じではない。上流から今も途切れる事なく流れてくる。

 子供の頃、母方の祖父の家に遊びに行ったが、家の前には小川が流れていた。私が行く時は大抵親戚中が集まってくる時であった(たぶんお盆の時だと思う)が、中に1人わんぱく坊主がいて、玄関にある靴やサンダルを片っ端から小川に流してしまう子がいた。流れに乗って(かなり早い流れだった)靴やサンダルが流れていくのが面白かったようである。当然、大人に怒られていたが、本人はどこ吹く風で何度も繰り返していた。今も祖父宅の跡地を訪れるたびに今も流れるその小川を見てはその子を思い出すのである。

 川の流れは時の流れに例えられることもある。我々は小舟に乗って現在を流れている。それは一方通行で、遡ることはできない。振り返ってみれば、流れてきたところはわかるが、戻ることはできない。SFでタイムマシンの話がよくあるが、現実的にどんなに人類の科学が進歩してもタイムトラベルはできないと思う。それは川の流れを見ていると実感できる。振り返ってみれば流れてきたあとはわかるが、そこにある水は自分の知っている水ではないわけで、例えなんらかの方法で上流へ遡ってもそこに流れている水はかつてとは違う水なのである。

 子供の頃、立会川の近くに住んでいたが、生活排水垂れ流しの汚い川であった。それでもなぜか川の流れを見るのが好きで、幼稚園の行き帰りによく欄干から眺めていたものである。その後、埋め立てられてしまって今は道路になっている。また、結婚してからは近所に白子川という小さな川が流れていて、よく子供を連れて図書館への行き帰りに自転車を止めては一緒に眺めていた。鯉や鴨や名前もわからない白い鳥がいて子供も楽しめたのである。哲学的な思考とは別に、近くに川のある生活というのはいいと思う。

 流れる川がどうかという思考はともかく、近所に川があり、魚がいて水鳥が飛来する環境というのは個人的には大好きである。夫婦の別居によってそこを離れてしまったのは、残念で仕方がない。しかし、それもまた流転なのだろう。この先、どうなっていくのかはわからないが、時の流れという大きな川に舟を浮かべている身としては、流れに身を任せていくしかない。その中で多少右や左へ舵を切れたとしても、大きな流れの中では小さな動きなのだろう。

 これからあとどれくらい舟を浮かべていられるのかはわからない。何年かするとまた今とは違う生活を送っているかもしれない。万物は流転するものであり、この先どうなっていくのかはわからない。それでもその中で自分のできる精一杯のことをし、できれば周りの人を幸せにできるように生きていきたいと思う。自分の存在は大河の一滴であるが、意味のある一滴でありたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  人はなぜ自分を殺すのか(新潮新書) - クリスティアン・リュック, 久山葉子  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




2025年11月13日木曜日

老化とは

 人間は誰でも年を取る。年を取るとはどういうことか。それは理屈では理解しているが、やはり実際に体験してみないとわからないものであるとこの頃実感する。実家の両親はともに88歳であるが、「元気」とは言いにくいものがある。病院通いしているからというわけでもないが、「短期記憶力」の喪失には著しいものがある。一晩寝ると忘れるどころか、3歩歩くと忘れるといったニワトリレベルの時もある。わかってはいるけれど、頻繁に同じことを聞かれるとうんざりさせられる時がしばしばなのである。

 実は短期記憶の喪失については、還暦を過ぎた私自身にも既に現れている。以前、資格取得の勉強をしていた時のこと、重要なキーワードを見ておこうとテキストを開いたところ、既にマーカーが引かれている。引いたのは私以外にはいないのだが、私にはその記憶がない。かつて受験の頃などは、一度読めば覚えていなくてもなんとなく「見たな」という記憶は残っていたものだが、それすらなくて愕然とした。一度読んだ本に途中で気づくならともかく、読み終えてもまったく気づかなかった事もある(読んだ本はブログにまとめてあるのだが、同じ本を2度取り上げていたのである)。

 これがだんだん拡大すると、わが両親のようになるのだろう。父はよく財布をなくす。財布をなくすと大変である。中にクレジットカードやキャッシュカード、運転免許証がはいっていて、私も喪失手続きを手伝った。しかし、その後実家に行くと、同じクレジットカードが2枚ある。本人に聞いてもわからない。よく見たらなくしたはずの運転免許証も持っている。キャッシュカードもある。どうやらなくしてはいなかったよう。一緒に住んでいる今は、「なくした」と言われると私もあちこち探す。そうすると大概見つかるのである。

 今はお金を下ろすというと大騒ぎで、たとえオレオレ詐欺の電話がかかってきて相手を信じてしまっても、1人ではお金を下ろせないのでその点では安心である。頻繁になくされても探すのが大変であり、今は私が通帳もカードも印鑑もマイナンバーカードも一括管理している。お金の面では老親だけに任せておくと怖いものがある。どうやら記憶力とともに判断力も低下するようで、母の理屈の通らない理屈と付き合うのも骨が折れる仕事である。

 肉体的な衰えに関しては、少しずつ私も実感している。それは仕事をする上ではあまり影響はない。しかし、スポーツにおいてははっきりと現れる。最初に気づいたきっかけは、試合のビデオである。自分では風を切って走っているつもりだったが、映像で見るとどうにも動きが鈍い。それは私だけではなく、他のプレーヤーも同様。その結果、全体としては緩い試合になっている。それは年代が上がればより一層違いがはっきりする。かつて若い頃、シニアの試合を見て、「あんな緩いラグビーやりたくない」と思っていたが、いつの間にか自分がその緩いラグビーをやっている。

 昔は1週間くらい運動しなくても影響は何もなかったが、今は1週間空くと筋肉痛やらの影響がすぐに出る。怪我をしても大きな怪我でなければ、2~3日、あるいは1週間程度で治っていたが、今は1か月以上長引くことも珍しくない。ボールを蹴っても昔ほど飛ばない。頭の中は昔のままだから昔の通りに動くのだが、実際の体がついてこない。おそらく細胞レベルで微妙に劣化し、全体の動きの衰えにつながっているのだろう。人間も生き物である以上、そこは仕方のないところである。

 さらには外形である。練習が終わってシャワーを浴びると一目瞭然となる。30~40代の選手は皮膚に張りがある。しかし、50代、60代となるとだんだん皮膚がたるんでくる。背中から尻にかけてが一番目立つ。ラグビーはコンタクトプレーが中心で、互いにぶつかり合うスポーツである。その時にやはりこれだけ体に差があると、それは大きなハンディになる。いくら頭の中で昔と同じつもりでいたとしても、体が衰えている以上、同じプレーはできない。それを実感して今は試合をする場合は同世代相手とのみやるようにしている。体が違う以上、無理はよくない。

 両親を見ていると、自分も同じように衰えていくのだと思う。もちろん、私の方が老化のスピードは遅いのではないかと思うが、それは遅かれ早かれの問題であると思う。人生を90年と考えれば、生まれてから結婚するまでの上り坂の時代、結婚して子供が生まれて子育てが終わるまでの時代、そして1人になって終末に向かう下り坂の時代とちょうど30年ずつ分けられる。自分はその下り坂の時代に入った事になる。できないことができるようになっていく上り坂の時代に対し、できたことができなくなっていく下り坂の時代だと言える。

 両親に対しては、「なぜこんな簡単なことができない」という気持ちが沸き起こることもあるが、相手が幼い子供だと思えばできなくても当たり前だという気持ちになる。いずれ迎える自らの姿だと思い、それを我が子に眼前に見せてくれているのだとも言える。それに感謝しつつ、寛容の精神で両親に接するとともに、自らは少しでも健康寿命を伸ばすことを意識していきたいものである。人生最後の日をこのブログに綴ることができたなら、それは最高ではないかと思うのである・・・


PeggychoucairによるPixabayからの画像

【本日の読書】

全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  人はなぜ自分を殺すのか(新潮新書) - クリスティアン・リュック, 久山葉子  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義









2025年11月9日日曜日

進化する鉄道サービス

 先週、久しぶりに出張で大阪に行った。一泊二日の慌ただしいもので、何か美味しいものを食べたわけでもなく、まぁ仕事だけの関西出張であった。新大阪から御堂筋線に乗ってなんばまで行ったのであるが、「顔認証」改札機があるのを発見した。「関西はまたもや進んでいるな」とその時感じた。実はもう30年くらい前になるが、やはり大阪で初めて自動改札機を目にした。駅員がいないのは新鮮だし面白いと感じた(同時にキセルもできなくなるなと感じた)。これからは皆こうなるのかと思ったものである。その時、東京では導入の気配さえなかったので物珍しさからよく覚えている。

 関西の鉄道会社の方がチャレンジ精神旺盛なのだろうか。首都東京よりもいち早く導入する進取の気性を感じてしまう。残念ながら利用している人は見かけなかったが、利用する人はそれはそれで進取の気性に富んでいるのかなどと思ってしまう。さらに電車の中の広告ではカードならぬ「リング」もあると謳っていた。リング、すなわち指輪である。これだといちいちカードやスマホを取り出してタッチする必要もなく、そのままリングをはめた指をかざすだけである。指輪はそれはそれで気になる人は気になるかもしれないが、顔認証の「顔パス」は便利である。

 30年前に初めて目にした自動改札機はもはや当たり前になっている。関西から始まったのかどうか詳しくは知らないが、やがて顔認証改札機は一般的になっていくような気もする。指リングはそれに比べると何となく伸び悩むような気がする。顔認証は改札だけではなく、あらゆる所に広がりそうな気もする。我が社でも出入口のICカードに替えて顔認証を導入しようと個人的に社内で提案しているが、家の玄関もそうだし、ATMもそうだし、およそセキュリティーが求められる所にはすべて可能性があると思う。

 そんな妄想を抱きながら東京へ帰ってきたが、東京駅から乗った丸の内線は優先席が少なく、その代わりにスペースが広く取られていた。御堂筋線もそうだったが、これはラッシュ対策なのかなと思った。最近は優先席が片側にしかなく、反対側はただのスペースになっている車両が目につく。朝夕のラッシュ対応であるとともに、本来の目的は車椅子対応なのかもしれない。車椅子対応はいいとしても、その分優先席が減るというところはいいのだろうかという気がしなくもない。一般席を減らしてスペースを作るという発想はなかったのだろうか。

 そう言えば、他の都内の私鉄では座席が「個席」になっている車両を見かけた。これは詰めて座らない人が余計なスペースをとってしまい、規定の人数だけ座れないということを避けるものだろう。お行儀よく座らない人には注意するより最初からお行儀よく座らせる方法を考えた結果なのだろう。「自分が源泉」で考えたいい解決策だと思う。ただ、デブはどうなんだろうと感じる。尻がはみ出て座りにくさを感じたりするのだろうか。通常の席でもデブの隣は空いていても私などは残されたスペースと自分の幅を考えて座るのを諦めることがよくある。ちょっと気になる所である。

 それにしても常に変化する車両やサービスであるが、鉄道会社などはこういう改善などしなくても顧客確保という意味では安泰なような気もするが、それにあぐらをかくことなく常に改善を目指しているのだろうか。利用者目線ではありがたいことであるが、安泰の上に安住する事なく、改善を続ける姿勢は我が社もかくありたいと思う。ここのところ将来のあるべき姿について問題提起しているが、社内の、特に現場の尻は重い。変化し続けると言っても「何をどうする」という問題はなかなか難しいものがある。

 人間誰でもそうであるが、昨日と同じことを今日も明日も続けるということは楽なことである。何より考えなくて済む。しかし、一般的にはそれでは競争社会の中ではいつの間にか追い抜かれてしまうことになる。それでも鉄道事業のように参入障壁が高く、一見すると安泰な事業で、こういう改善を目指す姿勢は素晴らしいのではないかと思える。もっとも料金が認可性であるから、同じサービスで値段だけ上げろという理屈が通りにくいという理由があるのかもしれない。何にせよ、サービス改善は利用者目線ではありがたい。

 できるなら関東各社は関西に負けず、関東発の新サービスを生み出すことを期待したいと思うのである・・・


유봉, yubong 정,JenogによるPixabayからの画像

【今週の読書】

 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント 一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  菜食主義者 新しい韓国の文学シリーズ - ハン・ガン, きむ ふな




2025年11月6日木曜日

オンラインショッピング雑感

 オンラインショッピングは誠に便利で、私も最近はほとんどオンラインで買っていると言っても言い過ぎではないくらいである。ただ、オンラインショッピングの難しいところは、現物を確認できないところである。注文したものが届いて開けてみたところ、イメージとは違うという事も少なくない。現物を買う前に手にしていたら間違いなく買わなかっただろうというケースもある。それにまだイメージとは違う程度ならいいが、詐欺だったりすると目も当てられない。そこをどうリスク回避するかは悩ましいところである。方法としては、「割り切る」か「手を出さない」かしかない。

 メルカリなどC to Cとでも呼べそうな個人間のものはやはり警戒してしまう。私は基本的にやらないことにしている。「手を出さない」の選択である。非売品なら別であるが、少し安いくらいであれば事業者から買うようにしている。非売品でどうしても欲しければ「割り切る」だろう。損しても後に気持ちの上でしこりが残らない金額に抑えて「割り切って」買うのである。「割り切る」のもいいもので、例えば最近よく目にするtemuは、商品が驚くほど安い。どうやら中国の業者であるが、そのために安いのだろう。気になるのでいくつか買ってみたが、最初は全額損する覚悟で割り切って購入したのである。

 そうしたところ、やはりモノによって失敗もあったが、概ね安いからOKというレベルであり、これはこれで良いと思う。ワイヤレスイヤフォンなどは、しばしば耳から落ちてしまうので基本的に買わないつもりだったが、あまりにも安いので「割り切って」買ったところ、特に問題もなく快適である。なので今では部屋で音楽を聞く時の専用にしている。これなら落ちても問題はない。もちろん、髭剃りなどは「安かろう悪かろう」の典型だったが、安いし割り切った上なので失敗感は感じないで済んでいる。ストレスなく買い物できているのでまぁ良しである。

 年末には最近おせちを注文している。これまでは実家の両親のためであったが、今年はそれに私も加わる。あちこちいろいろなおせちを試しているが、今年はジャパネットたかたのおせちを頼むことにした。量も内容もよさそうで、価格は19,980円。定価は29,980円で、「10,000円お得」だという。20,000円とするよりも20円下げて1万円台にするのは価格戦略としてよく知られている。わずか20円でも確かに2万円よりも気持ちの上では抵抗感が減る(でも消費税を入れると結局2万円超となるのであるが・・・)。それにしても気になるのは「10,000円お得」の部分である。

 1万円もディスカウントする理由は何か。通常、定価よりも値引きするのは、売れ残りを処分したり、福袋のように特別なケースで赤字覚悟で限定的にサービスしたりするものである。しかし、おせち料理などは上記のケースに当てはまらない。否、ジャパネットは大概この「10,000円お得」のようなものばかりである。最初から「10,000円お得」とは何かと疑問に思う。数量限定というわけでもなく、明らかに最初から19,980円の値付けで考えているとしか思えない。ならジャパネットの「定価」とはいったい何なのか。

 価格の決め方には、「原価積上げ方式」という原価に利益を乗せたものを定価とする方式があるが、最近はマーケットの売値から逆算して考える方法が一般的らしい。ジャパネットも当然「19,980円」という売値を最初から決めて内容(原価)を考えているはず。ならばなぜ最初から「19,980円」としないのか。それはやはり安さを印象付けるためなのだろうと思う。もちろん、まったく根拠もない話ではないと思う。それなりに内容物から考えて説明できる価格を「定価(29,980円)」としているのだろうとは思う。ただ、最初からその価格で売ろうと考えていない「価格」というだけである。

 だからといって顧客を欺くあざとい戦略というものでもないと思う。通販という性格上、現物を実際に見せて売ることはできない。どうやってアピールするかと考えると、「内容盛りだくさんでもこの価格」と印象付けるためには、「定価(に見合う価値)よりも10,000円も安い」と訴えるのは理に適っていると思う。買う方としても期待はするが、万が一(実物を見てがっかりする)のことは想定している。何回かのトライ&エラーは覚悟の上である。過去数年、楽天で選んだり、郵便局のものを選んだりしているが、まだ「これはいい」と継続的に頼みたくなるものにあたっていないだけである。ジャパネットのもイマイチだったらまた他のを探すだけである。

 これも「割り切る」と言えば言えるが、ジャパネットだけに丸々損することはないだろう。購入価格に比べて釣り合うかどうかが判断基準となるが、そこは信頼できるのではないかという気がしている。何にせよ、「ポチっ」で買えるのはありがたい事である。temuなどはいろいろなものがあるのでついつい見入ってしまう。安いから失敗しても後悔はない。一方、ジャパネットはそこまでの覚悟をしなくてもいいという安心感がある。食事の配達も実に便利である(Uber Eatsはもうやらないが)。今は本当にいい時代だと思える一つの理由は間違いなくオンラインショッピングだと思う。

 これからも「割り切って」買い物していきたいと思うのである・・・


GemmaによるPixabayからの画像

【本日の読書】

全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  菜食主義者 新しい韓国の文学シリーズ - ハン・ガン, きむ ふな





2025年11月2日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その15)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、出則事公卿、入則事父兄。喪事不敢不勉。不爲酒困。何有於我哉。
【読み下し】
いわく、でてはすなわ公卿こうけいつかえ、りてはすなわけいつかう。そうえてつとめずんばあらず。さけみだれをさず。われいてなにらんや。
【訳】
先師がいわれた。
「出でては国君上長に仕える。家庭にあっては父母兄姉に仕える。死者に対する礼は誠意のかぎりをつくして行なう。酒は飲んでもみだれない。私にできることは、まずこのくらいなことであろうか」
************************************************************************************
 一読してなんとなく自分の事であるように感じたのである。外に出ては会社で社長に仕え、家庭にあっては父母に仕え、祖父母の仏壇には一日一回手を合わせ、酒は飲みに行っても生ビールとハイボール一杯くらいでやめてしまうし、当然酔い乱れることはない。ごく普通の人間であると思う。考えてみれば、大半の人がそうではないかと思う。もっとも、人によって微妙な違いはあるだろう。会社経営者であれば会社で仕える人はなく、独身者であれば両親とは別居だし、仏壇もないのが普通だろう。酒を飲んで失敗するのは若いうちにはありがちである。

 そう考えると、会社勤めで家族持ちで、ほどほどに身内に鬼籍に入った人がいて、酒に飲まれることもなくなるような人となると、ある程度年齢のいった人ということになるのではないだろうか。上記は孔子がいくつの時のものかはわからないが、若かりし頃の言葉ではないように思える。ある程度年齢がいってさまざまな経験を積んでくると、大体の人は「落ち着いてくる」し、そうすると先の孔子のような境地に立てるのではないかと思う。

 若い頃はそれなりに野心のようなものはあったと思う。銀行に入って頭取になろうとは思わなかったが、そこそこ恥ずかしくない程度に(可能な限り)出世はしたいと思っていた。涎を垂らすほどではないが、垂らさないほどにはと思っていた。ただ、それを目的に上司に媚を売るようなことはしなかったし、己を貫いていたからあまり覚えめでたくはなかったと思う。それは今も基本的に変わっていないと思う。仕えると言っても、奴隷ではないし、上司の顔色ばかりを伺うようなことは決してなかった。

 「仕える」というのは、隷属を意味しない。高校生の頃、将来はサラリーマンになりたくはないと漠然と思っていた。それはサラリーマン=社畜というイメージがあったからで、実際に就職してみると、時代もあって最初は滅私奉公を強いられた。それに対して必死に抗ってきた20代であった。実際には周りはみんな隷従していたように思う。休みの日の行事にも面従腹背で参加していた。日本的と言えば日本的。今は極めて仕事を楽しんでいるし、形の上では社長に仕えているが、自分は「いないと困る存在」であることを自覚しているから、隷属ではない。

 両親と同居しているが、それはむしろ老いて危なっかしくなった両親の生活を支える意味合いが強く、それは日々の食事や週末の掃除、洗濯、買い物といった「世話」的なものであり、「仕える」と言っても従属的なものではない。毎日、仏壇に向かって手を合わせるが、おそらく祖父母のことをそうやって思うのは私までで、祖父母を知らない私の子供たちは何も思わないだろう。死んだ人はその人たちを思い出す人がいなくなると、本当に世の中から存在しなくなるように思う。数少ない思い出と共に、祖父母を思い出すのが私にできる誠意である。

 「仕える」のも「死者に対する礼」も従属的なものではなく、主体的なものである。孔子がどんなことを念頭に置いて語ったのかはわからないが、そこにあるのは自分なりの生き方であるように思う。人間もある程度の年齢になれば自分なりの生き方に対するこだわりのようなものができてくると思う。人に誇るようなものである必要はないが、自分にとって居心地の良い、それでいて卑屈になることなく、胸を張って人に語れるような生き方である。孔子にとって、それがここで挙げていることなのだったのだろうと思う。

 自分も主体的に「仕える」ことによって、誰かの役に立てるような存在であればいいと思う。自分のできることの範囲内で、自分のありたいようでいられたらと思うのである・・・


Kelli NuttallによるPixabayからの画像


【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗




2025年10月30日木曜日

企業で働くとは

 現在、若手の社員の扱いに頭を悩ませている。勤務は真面目で特に問題はないのであるが、問題なのは「休みが多い」ことである。体調不良と言われると文句は言えない。しかし、その日数が多いのは問題である。有給休暇を使い切ると、あとは欠勤になる。欠勤になれば給与もカットになる。「働かざる者食うべからず」ではないが、働かない以上、給料を払わない(欠勤分を減額する)のは当然である。社労士さん曰く、❝No work,No pay❞の原則らしい。給料を減らすのであれば問題ないかと言うと、そうでもない。休めば当然周りに負担をかけることになる。

 休む本人はいいかもしれないが、その本人が本来やるべき仕事は周りの者がやらないといけない。1日、2日ならいいが、1週間となると先送りできない仕事もある。月末月初等で限られた期限の中でやらないといけない仕事は、本人が出てくるまで待っているわけにもいかない。誰でもできる仕事であればまだしも、特定の人しか精通していない場合、その人の負担は過大になる。取引先との折衝があるような場合は、取引先との信頼関係にも支障をきたすから、担当にもつけられなくなる。

 そもそもであるが、会社と社員は「雇用関係」にあり、入社時に「雇用契約」を取り交わしている。会社と社員は契約関係にあるわけである。平たく言えば、「これだけ働けばこれだけ払う」というものである。「これだけ払う」は給料であるが、「これだけ働く」のは(日本の場合=我が社の場合も)明確にはなっていない。基本的に「土日祝日を除く平日に働く」のが原則で、せいぜい年間付与される有給休暇の日数が「休んでよい範囲」と解釈できる程度であろう。つまり、有給休暇(それ以外に特別休暇があればそれも含めて)の日数が休む事が認められる範囲だろう。

 有給休暇を超える日数を休むということは、すなわち「契約違反」であり、したがってその分給料を減らす事になる。契約違反は契約解除につながるものである。さすがに1日でも欠勤があったら契約解除ということはないが、「度を過ぎれば」当然ありうる話である。今の時代、会社は簡単に社員を首にすることはできない。それはそれで良いことだと思っているが、社員もそれに甘えていて良いということもない。契約という形で働く約束をした以上、社員の方も意識を持って働かないといけない。

 入社前には社員に健康診断を義務付けている。普通、あまりその意味を考えていないかもしれないが、健康であることの証はすなわち、決められた日数働けるということの裏付けである。もちろん、健康面で会社が配慮するべきことがあるかどうかという確認もあるかもしれないが、基本はそうであろう。件の若手社員は欠勤日数の合計が2か月近くにもなる。それだけ休まれると少しでも責任のある仕事は任せられなくなる。結局、行き場を失って私の下(人事・経理・総務部門)に来たが、勤怠状況は変わらず、今や完全に「お荷物くん」になってしまっている。

 そのお荷物くんであるが、根底には「甘え」があるように思う。「契約」関係を意識せず、体調不良であればいくら休んでも仕方のないことという「甘え」。欠勤があれば給料をその分減らされるが、それさえ我慢すればいいことという「甘え」。今の時代、「這ってでも出てこい」という事はできないが、「這ってでも出ていく」という気構えはあってもいい。否、ないといけない。もしも業務で重要な仕事があり、休めばお客様に迷惑がかかるという状況になったらどうするのか。もしも、「這ってでも行けない」くらいであれば、せめて全力で誰かに代わりを依頼しないといけない。

 彼はそういう部分での信頼性を失っていることにも気づいていない。その昔、野生に近い原始社会では、人は狩猟や農耕の労働をしなければその日の食べ物を得られなかったはず。体調が悪いと言って何もしなければ空腹を我慢するしかない。それは人間の、というより生物の宿命であり、大原則である。人類は高度に発達した社会を築き上げ、相互扶助の仕組みもあって働けなくても生きてはいけるが、大原則を忘れてはいけない。理由はともあれ、(決められた日数を)働けないのであれば、退場するしかない。

 会社は働かなくてもサポートしてくれる組織ではない。お金のために働くという契約を交わした集団であるから、働かない(働けない)のであれば、組織から退出しないといけない。そこが家族とは違うのである。件の彼にもそんな話をしてきたが、いよいよ最終的な話をする段階にきている。残念ながら、みんなの稼いだお金を無駄に使うわけにはいかない。お荷物くんを食べさせていくわけにはいかない。厳しいようであるが、レッドカードを出すべき時が来ている。これもお役目と心得てその役を果たさなければならないと思うのである・・・


PDPicsによるPixabayからの画像

【本日の読書】

全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗





2025年10月26日日曜日

管理職合宿

 何かを集中してやるという時に、合宿はよくやる手段である。スポーツでは一般的で、私も小学生の時には野球で、高校でラグビーを始めてからはやはり山中湖や菅平で合宿を行った。小学生の時は野球の合宿というよりは、プールタイムもあったりしてどちらかと言えば遊びみたいなもので、辛いということはなかった。しかし、高校の時の山中湖の合宿はもう2度と行きたくないと思うほど辛いものであった。菅平は逆に楽しい思い出ばかりで、今でも学生時代に戻ったら行きたいとさえ思う。その違いは「自主性」のように思う。

 合宿に限らず何事もそうであるが、「やらされている」ものは面白くはない。高校の合宿がその際たるもので、キツイ練習だけで何も楽しみもなかった。しかし、大学に入ってからはガラリと変わり、自主性を重んじる伝統から自分たちで考えて全てをやる仕組みであり、私も上手くなるために何が必要か常に考えて練習していた。ラグビーそのものも楽しかったし、合宿でも1日の練習や試合が終わったると、外へ行ったりするのも楽しみであった。それは学年を上がるごとに(個人からチームへと責任範囲が広が流ごとに)充実していった。

 それは仕事においてでも同じである。今年に入り、役員だけでの合宿をやり、金曜日から土曜日にかけては管理職で合宿に行った。今や取締役として「主催」側であることもあるが、なかなか内容の充実した満足度の高いものであった。社会人になってからの銀行員時代も泊まりではなかったが、週末に終日かけての合宿のような会議があった。対象は総合職のみ。一般職の女性は対象外だったのも「時代」である(今回の管理職合宿には女性管理職も参加した)。若い時のそれは苦痛でしかなかった。

 会議の目的は、期初にあたっての事業計画の策定であるが、下っ端はほとんど訳がわかっていない。休みの日に強制参加ということもあってモチベーションなど上がるはずもなく、幹部だけでやればいいものをなぜ下っ端も参加しなければならないのかと不満であった。支店の成績によってボーナスの額が左右されることはわかっていたものの、下っ端のそれは変動幅も少なく、そもそもそれほど支店に忠誠心もない。今考えてみても、やっぱりある程度の幹部だけでやるべきだったのではないかと思えてならない。

 そういう意味で今回は管理職のみ。場所は温泉地のホテル。日常を離れた空間でさまざまな議論をし、演習などをやったりして普段使わない脳みそを使ってもらった。共に夕食を食べ、軽く飲みながら仕事以外の話もし、結束が強まったのではないかと思う。やはり管理職ともなると責任感もあるし、昔の私みたいなイヤイヤながら参加している者は皆無に見えた。管理職から経営は始まるものであり、それまで指示される立場であったのが、これからは指示する側に回る。そういう意識を強く持ってもらえたのではないかと思う。

 管理職はもはや指示される者ではない。もちろん指示もされるが、それ以上に全体方針を理解し、自ら考えて動いていかないといけない。全体方針に基づいて自分の課をどう運営していくかは、それぞれの管理職が考えていくべきもの。部下に指示をし、場合によっては経営層に意見具申をし、会社を動かしていく。中間管理職と言えば、一般に「悲哀」とともに語られる事が多いが、本来は会社の中心になって動かしていく面白い立場であるのである。

 新しい期の始まりにあたってこのような合宿をやれたのは良かったと思う。みんなの反応も好評であり、これから定期的にやっていこうという流れである。学生時代、菅平で合宿を行い、来るべきシーズンに備えて準備した。それは決して辛いものではなく、楽しみでもあり、内容については緊張感のあるものであった。今回の管理職合宿も同様であった。若い頃には苦痛であったものが、今は楽しめるものでもある。それを有意義なものにするためにも、今期はいい成績を収めたいと思うのである・・・


wal_172619によるPixabayからの画像

【今週の読書】
全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗



2025年10月22日水曜日

ワークライフバランスとは無縁の仕事

 日本初の女性総理大臣として高市早苗自民党総裁が選出された。私は自民党の支持者ではないが、女性先進国のアメリカとフランスでもまだ女性の大統領が誕生していないことを鑑みると喜ばしいことであると思う。それに先立ち、自民党総裁に選出された際のスピーチで「ワークライフバランスを捨てる」と発言したことについて賛否が分かれているという。とある調査では「ポジティブに受け止めた53%、ネガティブに受け止めた29%」となったようである。この時代にあって概ね好評だったのは好ましいことだと思う。

 ただし、ダイヤモンドオンラインには『「働いて働いて働きまくるリーダー」が部下を不幸にする決定的な理由』というネガティブな意見が表明されていた。いろいろな意見があっていいと思うが、その違いはどこからくるのだろうかと考えてみた。私自身は総理大臣たる者は、国のために働くということを全国民から付託されているわけであり、「24時間働く」のは当たり前だと考えている。そこにはワークライフバランスなど入る余地はなく、それを堂々と表明した高市新総理には拍手を送りたいと思う。

 しかし、先の記事を読んでいくと、それをネガティブにとらえる理由は「誰か(特に影響力のある上司など)が長時間労働をすることは、周囲の部下や同僚の労働時間を長くし、彼らの幸福度を下げてしまう可能性がある」ということのようである。つまり、本人はいいけど部下が長時間労働を強いられるということが否定の理由であるようである。もっともな意見であると思うが、これも考え方だと思う。国民全体のことと部下のこととを比較してどちらを優先すべきかという問題で、著者は部下を選択しているだけであり、そういう考え方もあると思う。

 ただ、こういう場合、私は可能性の話で反対するのではなく、メリットデメリットを考慮し、メリットの方が大きければデメリットを最小化する方法で乗り切ればいいのではないかと考えるタイプである。つまり、部下が長時間労働に苦しまなくて済む方法を考えればいいのではないかと思うのである。これは何事であれ同じであるが、目的(メリット)とリスク(デメリット)を比較し、メリットが大きければデメリットを最小化してやる方法を考えればいいだけのことだと思う。「デメリットがあるからやらない」というスタンスでは、当たり前だが何事もなしえない。

 そもそもであるが、考え方の違いには「見えている景色の違い」もあると思う。ワークライフバランスは主として「従業員目線」の考え方である。もちろん、それ自体悪くはなく、むしろ大事なことである。しかし、一方で経営者目線で考えると、そこにあるのは24時間働く覚悟の有無である。経営者であれば(特に社員を雇っていれば)、会社を存続・成長させるためには全精力を傾けるものであり、そこにワークライフバランスという概念はない。もちろん、だからといって社員に長時間労働を強いるのは違う。総理大臣は会社経営者よりはるかに大きな責任を負っているのでなおさらである。

 おそらくダイヤモンドオンラインの記事を書いた方は従業員目線での意見を述べたのだろう。日頃から何をどう考えるかというところには、普段からの「目線」が影響する。従業員目線で見ている人は、必然的に物事をそういう目線から見て判断する。高市総理の発言を聞いて、従業員目線で重要なワークライフバランスを脇に除けるような発言を危ういものと判断したのであろう。私はと言えば、先にも述べた通り総理大臣の辞書にはワークライフバランスという言葉は載っていないと考えるので、まったく問題を感じないし、むしろ当然だと考える。それはどちらが正しいという問題ではなく、「目線」の違いと言えるだろう。

 一般的に何かを考える時に、メリット・デメリットの比較と代替案の発想は大事だと思う。メリットよりもデメリットの方が大きい時はそれをやる意味はないだろう。また、代替案の発想も大事だと思う。ただ、「〇〇だからダメ」で終わってしまうと、やはり物事をなしえないという結果に終わってしまう。「どうしたらできるだろうか」という創意工夫の発想でデメリットを最小化することができないかという思考が、なしえる何事かにつながっていくと思う。ダイヤモンドオンラインの記事は、デメリットに気づかせてくれるという意味では大いに意味のある内容であった(私もその視点には気づかなかった)。自分と異なる意見にはそういう気づきも含まれていたりする。

 それにしてもダイヤモンドオンラインがこういう記事を掲載するということは、こういう視点で物事を考えるスタンスだということなのだろうと思う。賛否両論が掲載されていると、それぞれの意見がわかって思考訓練になると思う。しかし、残念ながら新聞も含めてメディアは自らの意見を押し付けるところがあり、常々そこは残念に思う。まぁ、自分で考えるトレーニングになるという意味ではいいのかもしれないし、そう思うことで納得するようにはしている。高市新総理は特技が徹夜だという。それはどうかと思うが、女性ということだけが話題で終わるのではなく、国民のために大いに成果を挙げていただきたいと思うのである・・・


Suman MaharjanによるPixabayからの画像

【本日の読書】

全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  一度読んだら絶対に忘れない生物の教科書 - 山川 喜輝  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗




2025年10月19日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その14)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、吾自衞反魯、然後樂正、雅頌各得其所。
【読み下し】
いわく、われえいよりかえりて、しかのちがくただしく、しょう各〻おのおのところたり。
【訳】
先師がいわれた。「わしが衛から魯に帰り、そのあと音楽も立ちなおり、雅楽も納まるところに納まった。」

************************************************************************************

 まだ10代の頃、テレビで歌謡番組をやっていると、それを見ていた母親がキャンディーズやピンクレディーなどの当時のアイドル歌手の歌を聴きながら、「こんなのどこがいいのかねぇ」と言っていたのを思い出す。母は美空ひばりのファンであり、歌と言えば「演歌」という感じであった。おそらく、母にとっては演歌こそが歌であり、じっくり聞かせるものであり、フリフリキャビキャビしながら愛だの恋だのと歌う歌謡曲などは歌のうちには入らないという思いだったのだろう。しかし、演歌も歴史は浅く、その前の世代が美空ひばりをどう捉えていたのだろうかと興味深い。

 「こんなのどこがいいのかねぇ」と言っていた母の気持ちもよくわかる。「歌とはこういうものだ」という思いがあって、当時のアイドル歌手による流行歌は母の「基準」からは外れていたのだろう。私も共感する部分はあって、当時はアイドルよりもフォークソングの方がいいなと思っていたし、高校生になるとRCサクセションの方向に向かったし、アイドル歌手は遠くから眺めているかたちであった(それは今に至るまで変わらない)。私の音楽の趣味はみな母の「基準」からは外れるだろうが、それが私の「基準」なのである。

 孔子が衛から魯に帰り、音楽を「立ち直らせた」とするのはいったいどういう意味なのか、この訳だけではよくわからない。正しい基準があって、そこから外れていたものをあるべきところに戻したということなのだろうか。しかし、正しい基準がいったい何をもって正しいとするのかは疑問である。それは生物が突然変異によって進化するように、基準から外れることによって新しい基準となることは音楽に限らずよくあることだと思うからである。何より自分がいいと思うものこそが何よりの「基準」だろう。

 もっとも「伝統」というものも大事だということも理解できる。歌会始で読まれるのは伝統的な短歌であり、川柳が読まれることはないだろう。孔子が正したものがそういう宮中の伝統行事的なものであれば、それはそれでいいのであろう。そういう伝統の良さというのも理解できる。しかし、あまり正しい基準にばかり囚われていては、新しい文化が生まれてくることはない。新しい基準は得てして既存の基準に慣れた人にとっては異質で受け入れ難く感じるかもしれない。しかし、「変化」はそこからしか生まれてこないのも確かだろう。

 私は比較的柔軟なつもりではあるが、そうはいうもののラップが出てきたときには「なんじゃこりゃ」と思ったものである(今でもそう思う)。娘がいつからか嵐や関ジャニ∞(今はSUPER EIGHTか)に夢中になりだした頃、心掛けていたのは、決して「こんなのどこがいいのかねぇ」と言わないことであった。それはもちろん、自分の経験則からしてそんな事を言っても娘に嫌われるだけだとわかっていたからである。それに一緒に聴いているとそれなりにいいなと思うようになったのも確かである。人それぞれいいなと思う基準はさまざまであり、他人がとやかく言うものではないのだろう。

 そういえば最近はフォークソングという言葉をほとんど聞かない。といっても実は何がポップスで何がフォークなのか厳密な定義はわからないので、私が知らないだけかもしれない。J-POPだK-POPだとか言われるが、何がどう違うのかよくわからない(さすがにJとKの違いくらいはわかるが・・・)。いろいろと派生して変化していくうちに、音楽の姿もその時代の人たちの心をどう捕らえるかで変わってくるのだろう。そこに正しさを求めても仕方ないことかもしれない。

 最近、昔聞いていた歌をお気に入りに入れてYouTubeで聴いている。いろいろと変化していっても、聴きなれたものはやはり耳に心地よい。人の趣味にとやかく言うことはせず、自分の趣味だけ追及していくのがいいのだろう。せいぜいその趣味の範囲を柔軟に広げつつ、「自分の基準」で楽しみたいと思うのである・・・


PexelsによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント 戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元 黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗 頭に来てもアホとは戦うな! 賢者の反撃編 - 田村 耕太郎





2025年10月16日木曜日

映画『首』の鑑賞雑感

 先日、ビートたけし監督・主演の『首』という映画を観た(監督のクレジットは北野武であった)。たけし自身は羽柴秀吉を演じ、織田信長や明智光秀、荒木村重などの戦国武将が入り乱れる群像劇で、アレンジの効いた時代劇であった。タイトルにある通り、その中でしばしば出てきたのが、敵の武将を倒した際、その証として首を切り落とすこと。褒賞に際し、それを提示して手柄として認めてもらっていたようである。現代の感覚からすると極めて残虐である。何年か前に中東でISがジャーナリストなどを斬首して殺害し、その動画を公開するという事件があり、世界に衝撃を与えたが、かつては我が国でもそれが当たり前に行われていたのである。

 当時の人の感覚ではなんともなかったのだろう。あるいは、現代でも動物の屠殺が行われているが、慣れた人ならなんともなくても普通の人は目を背けてしまったりするが、同じようなものなのかもしれない。考えてみれば、武士の世ではカメラというものはなく、敵味方入り乱れる戦場などで敵を倒したという証は首以外になかったから、いつからか首を斬り落として手柄の証とするようになったのだろう。昔の刀の切れ味がどのくらいだったかはわからないが、スパッと斬り落とすわけにはいかなかっただろうと推測する。

 スパッと斬り落とすのは、切腹における介錯のようなケース(あるいは処刑における斬首)以外には難しかったのではないかと思う。映画では有名な備中高松城攻めにおいて、高松城主清水宗治が和睦の条件として切腹する様子が描かれる。船の上で舞を舞い切腹する様は有名であるが、長々とした儀式に秀吉がまだかとイライラする様子が描かれる。1人は人生の終わりに際し、ゆっくりと名残を惜しむかのようで、さっさと中国大返しに転じたい秀吉との対比がなされていたが、そんな中で最後に介錯人が首を斬り落としていた。

 切腹における介錯では、「首の皮一枚」を残すようにしたそうであるが、経験則の中から築き上げられたやり方だったのであろう。人間は腹を切ってもすぐには死なない。死ぬまでに苦しまなければならないから、苦しまないように首を斬って楽にする。残酷なのかそうではないのか、現代人の感覚からは判断が難しい。映画『最後の忠臣蔵』では、主人公が最後に腹を切るが、介錯人はおらず、自ら喉を突いていた。自己介錯とも言えるが、当時は武士の作法だったのであろうが、やれと言われてもとてもできるものではない。

 そういう時代だったと言えばそれまでであるが、『首』では、手柄の首を主君に届けて褒賞をもらう。斬り落とすだけではなく、それを持ち歩くこともできるものではない。ラストで山中に逃れた明智光秀が首を落とされ、その首が秀吉の前に持ち込まれる。じっくりと首実験をするが、人相が変わっていてそれとはわからない。伯父が亡くなった時、その死に顔を見たが別人のようだった事が脳裏をよぎる。こういうこともあったのだろうと思う。昔は写真などないからこういうこともよくあったのだろうと思う。

 それにしても、戦では命を賭けて斬り合い、負ければ首を落とされる。勝ったとしても相手の首を斬り落として持ち帰り、手柄として誇示する。大きな責任を取らなければならない時は腹を切り、介錯人になれば首の皮一枚を残すように首を斬らなければならない。首を斬れば出血も激しいだろうし、返り血まみれにもなっただろう。武士の世は死と隣り合わせであり、その血にまみれた感覚はなんとなく想像はしてみるものの、現代人の理解を超えるものがある。それはそれでいいとは思う。

 先日、秋の味覚さんまを食べたが、スーパーではさばいてもらえず、自分ではらわたをさばいた。見よう見まねであるが、なんとかできるものなのだと思ったが、それでも気持ちいいものではなかった。魚でさえそうなのであるから、人間では言わずもがなである。現代人で良かったとつくづく思う。理解などできない方が幸せなのだと改めて思うのである・・・




【本日の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  戦争の思想史: 哲学者は戦うことをどう考えてきたのか - 中山元  黛家の兄弟 (講談社文庫) - 砂原浩太朗