2025年2月5日水曜日

論語雑感 泰伯第八 (その17)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、學如不及、猶恐失之。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、学(がく)は及(およ)ばざるが如(ごと)くするも、猶(な)お之(これ)を失(うしな)わんことを恐(おそ)る。
【訳】
先師がいわれた。「学問は追いかけて逃がすまいとするような気持でやっても、なお取りにがすおそれがあるものだ」
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この言葉の趣旨としては、「学問は幅広いのですべてを網羅しようと思っても網羅しきれるものではない」ということだろうか。それはそれで極めて当然の事のように思う。実はその昔、教師になる可能性について考えた事がある。「先生はどこまでわかっている必要があるのだろうか」と。歴史を教えるにはどこまで歴史を知っている必要があるのだろうか?生物は?国語は?数学は?英語は流ちょうに話せなければならないのだろうか?と。もちろん、すべてを理解するのは不可能だろうが、ならばどこまで理解できていればいいのだろうかと。

中学生の時、初めて教わった英語のY先生は発音も含めて流ちょうに英語が話せる先生だった。自分もあんな風に英語ができたらいいなと憧れたが、残念ながら3年の時に異動となってしまった。代わりに来たのはザ・ジャパニーズ・イングリッシュのお手本のような先生だった。あんなんでよく先生になれたなと中学生ながら思ったが、実際にどこまで英語ができたかわからない。それでも教師になれたからには一定の範囲で極められたからなのだろう。それがどの範囲かはわからないが、教師になるとしても英語の教師だけはやめようと思った。

数学の場合はどうだろうか。すべてを極めるわけにはいかないが、高校教師であれば、大学の入試問題くらいは解けるだろう(否、解けなければならない)とは思う。私も宅浪時代、どうしても解けない問題があって、聞く相手がいなかったので高校に行って数学の先生に教えてもらったことがあったが、その先生は見事に解いてくれた。人にもよるだろうが、入試問題ならどの大学のものだろうと100点取れるという先生はいるだろうと思う。そのくらいになれば堂々と教師になれると思う。それに対し、国語は基準があいまいである。何となく今教師をやれと言われたら国語はできそうな気がするくらいである。

完璧を求めればきりがないとは思うが、人に教える以上はある程度のレベルが必要だろう。そのレベルは最低限としては資格を取れるレベルであるが、私が教師になるのであればそれにとどまらずできる限りは極めるだろうとは思う。英語であれば日常会話ができるのは最低限で、できれば映画の中での会話や英語原本の本の表現などを採り上げてさり気なく話題を提供したりするくらいはしたいと思う。「英語が話せるようになりたい」という生徒のモチベーションを上げられるようでありたいと思う。

国語であれば、教科書に沿って教えて終わりではなく、文学作品を採り上げて議論したり、美しい表現(小池真理子の作品なんかは筆頭に挙げたい)などを探してみたりという事もできるかもしれない(もっとも時間がそれだけあるかどうかはわからないが・・・)。いずれにせよ、自分が職業として取り組むとなれば、最低限のレベルで満足はせず、いろいろと考えて手を広げていくだろう。孔子の言う「なお取りにがすおそれがある」というのではなく、「もっともっと」という飽くなき追及が尽きないように思う。

もっとも、学校の先生を見ているとサラリーマン教師も多いようで、必要な授業ができればそれでいいという感じに受け取れるケースも少なくはない。孔子の言う「追いかけて逃がすまい」どころか「この程度でいい」という感じである。自分は教師ではないので理想論に過ぎないのかもしれないが、少なくとも自分が携わった分野であれば、「もっともっと」という飽くなき追及はあってしかるべきかもしれない。そしてそれは何も学問に限らないように思う。例えばスポーツでもあてはまるように思う。

私は高校時代からはじめたラグビーを60を過ぎた今もやっている。日本のラグビー界を底辺で支えてきたという自負があるが、とてもではないがトッププレーヤーからすればかなりの実力差がある。だからこそまだまだうまくなりたいと思っているし、テレビでトッププレーヤーたちのプレーを見ては自分にもできないかと研究している。今時だからYouTubeでもいろいろとノウハウが公開されているので、それらも参考にしているが、まだまだ極めたとは言えない。「もっともっと」うまくなりたいと思うし、これからも研究していきたいと思っている。

学問でもスポーツでも極めつくすという事はありえない事なのかもしれない。学ぼうとする意欲があるうちは、可能性はいくらでもあるのかもしれない。それは終わりなき旅路であり、「取りにがすおそれがあるもの」というよりも永遠に取りつくせないもののように思う。否、「学ぼう」とする気持ちこそが学問なのかもしれない。そこに学ぼうという意欲がある限り、学問(スポーツも含めて)は無限に広がっていくものなのかもしれない。いつまで続けられるかわからないが、そんな学問をずっと続けていきたいと思うのである・・・

Erich RöthlisbergerによるPixabayからの画像

【本日の読書】

「戦後」を読み直す 同時代史の試み (中公選書) - 有馬学   戦略文化 脅威と社会の鏡像としての軍 (日本経済新聞出版) - 坂口大作





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