先日、久しぶりに劇団四季のミュージカルを観に行った。観たのは、『ノートルダムの鐘』。何となく『ノートルダムのせむし男』というタイトルで覚えていたのだが、実は「せむし」が問題ある言葉だとされて変えられたのだと知る。原題は「パリのノートルダム」。何となく味気ない。相応しいタイトルというのは難しいものだと思うが、劇団四季のミュージカルを観たあとでは、『ノートルダムの鐘』というタイトルが一番いいように思う。
この『ノートルダムの鐘』であるが、ディズニー映画のキャラクターは脳裏に浮かぶが、実は原作を読んだことも映画やその他を観たこともなく、ストーリーは知らなかった。ヴィクトル・ユゴーの原作ということも知らず、有名な作品なのにあまりにも無知だったと思い知った次第である。「ヴィクトル・ユゴー原作」となると、何と言っても『レ・ミゼラブル』であるが、映画化されたものには、『ヴィクトル・ユゴー笑う男』などもあり、共に独特の雰囲気があった。そうした流れからすると、この作品にも同じ雰囲気があると観終えて強く感じたところである。
物語はタイトルにある通り、パリのノートルダム大聖堂が舞台となる。そこで大助祭を務めるフロローは、弟の遺児であるカシモドを育てている。カシモドは奇形児でせむしであり、その醜い姿を世間に晒すまいと、フロローは大聖堂の一室にカシモドを押し込めている。そして年に一度のある祭りの日に外に出たカシモドは、世間の嘲笑とジプシー娘のエスメラルダとに会う。そのエスメラルダには、何と大助祭のフロローも惚れてしまい、さらに大聖堂警備隊長のフィーバスもエスメラルダに惚れ、密かにエスメラルダに恋心を抱くカシモドも入れ、四角関係が出来上がる。
フロローは聖職者であり、しかもジプシーに対する嫌悪感を隠さない。カシモドは醜いせむし男となると、女としてのエスメラルダは自然と美形のフィーバスに心がいく。しかし、権力者でもあるフロローは、エスメラルダを何としてもモノにしたくて、それで自らの唯一の拠り所とする権力を持って事にあたろうとする。そしてそれがこの物語の悲劇へと繋がっていく。ストーリーはともかくとして、個人的に登場人物の中で一番興味を持ったのは、実はこのフロローであった。
フロローは、真面目に勉学に励み助祭へと進む。フロローの弟は兄とは反対に遊び暮し、ジプシーの女と恋仲となり、挙句に奇形児を残し病死してしまう。フロローは、賤むべきジプシーの血が入った奇形児に嫌悪感を抱くも、弟の遺児でもあり一応育てる事にする。聖職者であれば当然であるが、醜い奇形児ゆえに世間から隠して育てる。このあたり世間体を気にする性格でもあったのかもしれない。そして何と言ってもエスメラルダに対する歪んだ愛情。
普通女性に恋をして何とかしたいと思ったら、素直に気持ちをぶつけてアタックするだろう。しかし、フロローは権力でこれをモノにしようとする。「何と卑劣な」という感があるが、よくよく考えてみると、真面目に勉学一筋に励んだフロローには恋愛経験などなく、そうした愛の表現の仕方がわからなかったのだと思う。高いプライドもあって女性の、しかも差別視しているジプシーの女の前にひざまづくなんてできなかったのだろうし、自分が振られるのも許せなかったのだろう。だから高圧的に「俺の女になれ」と命ずるしか方法がなかったのだろう。考えてみれば気の毒である。
そうした女性に想いを告げる「テクニック」は、どうやったら手に入るかというと、やはり友人関係だろう。思い出すのは、大学に入学した直後のこと、アルバイトでたまたま一緒になった同じ大学の学生がタバコの吸い方を知らないのを目にした事がある。多分そいつは、小さい頃から親の言う通りに真面目に勉強に明け暮れ、女の子の話題で盛り上がったり、不真面目な友人との交流もなかったのだと思う。酒もタバコも従兄に教えてもらえた自分は、つくづくラッキーだったと改めて思う。
そう考えると、真面目に勉強だけしているのが必ずしも良いとは限らない。否、学ぶべきは学校の勉強だけではなく、酒やタバコや女の子との付き合いも立派な勉強だと言える。それらは学校で教わるものではなく、悪友だったり先輩だったりするのだろう。人間が成長するには、清流という環境ではなく、多少の濁り水も必要だということだろうと思う。もしもフロローもそうした濁り水を経験していたら、この物語は生まれなかったかもしれない。
何だかミュージカルとは離れたところに想いを馳せながら家路に着いたのであるが、それにしてもヴィクトル・ユゴーの世界は暗いものだと感じる。そういう時代背景だったのか、それともそういうものをあえて描きたかったのか。原作は劇団四季のミュージカルと微妙に違うところもあるようだし、今度原作も是非読んでみたいと改めて思った観劇の一夜だったのである・・・
【今週の読書】
0 件のコメント:
コメントを投稿