2017年5月17日水曜日

論語雑感 為政第二(その2)

子曰。詩三百。一言以蔽之。曰思無邪。
(いわ)く、()三百(さんびゃく)一言(いちげん)(もっ)(これ)(おお)えば、(いわ)く、(おも)(よこしま)()し。
【訳】(Web漢文体系)
先師がいわれた。詩経にはおよそ三百篇の詩があるが、その全体を貫く精神は『思い邪なし』の一句につきている。
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中国古典として有名な詩経について語ったものであるが、詩経については読んだこともなく、名前しか知らない。したがって、全体を貫く精神がどうのこうのと言われてもピンとこない。ただ、「邪なし」という部分については思うところもあり、考えてみた。

「邪がない」ということは、国語的には「正しくない」といった意味になるのであるが、果たして詩経の意味するところはどうであろうか。読んだこともないので細かいニュアンスはわからない。ただ、個人的に「邪なし」と聞くと、「純粋」というイメージがする。何が純粋かというとそれは「私心がない」ということだろう。それは特にリーダーに求められる資質だと思う。

リーダーとは、会社で言えば社長だし、スポーツチームで言えば監督だろうか。もっと下のレベルで部長とか課長とかの場合もあるだろうし、キャプテンのレベルもあるだろうが、いずれにせよリーダーに「私心」があると、それはチームの士気にかかわり、メンバーのロイヤルティーにもかかわると思う。当然、私心溢れるリーダーの下では、士気も上がらないだろうし、ロイヤルティーも下がるだろう。

考えてみれば当然で、社長が社員に出す指示が、私腹を肥やすことにつながったりしていれば、社員は黙って従うだろうが内心良くは思わない。例えば中小企業などでは、よく社長が使用で使った領収書を経理に回すようなことがある。社長にしてみたら自分の会社だし、少しでも税金を軽減したいしという思いから、何も考えずにそうしているのかもしれない。ただ、それを指示されてやる立場からすると、(自分だったら)快くは思わないだろう。逆にそれが営業に関するものだったりすると、「社長も頑張っているのだな」と思うだろう。

監督に対する信頼感も、もちろんその指示がチームの勝利に結びつくものであることによって強化されるだろう。それがメンバー選びなどで、自分より劣っていると思う者が選ばれて、それが監督の身内やお気に入りだったりすると、チームに献身する気も失せてしまうだろう。言い換えれば「納得性」という言葉になると思うが、そうしたものがチームスポーツなどではチームの原動力の一因になると思う。

こうした「邪なし」はリーダーだけに問われるものかと言えば、それだけでもないだろう。例えばチームの一メンバーであったとしても、チーム方針に対する意見を述べる時などは、大局的な観点に立った意見というものが要求されるだろう。「チーム全体にとって良い事」であれば、その意見にも説得力が加わる。単に自分に都合がいいだけのものだったりすれば、反発を招くだけでとてもみんなの合意など得られない。

そうしたことをあれこれと考えると、結局のところグループで動く場合は、この「思い邪なし」という原則が基本原則になってくるように思う。果たして詩経に収められているのはどんな内容なのかはわからないが、この言葉を目にしてそんなことを思う。
今、小さいと言えども会社の中でそれなりの立場にいることを考えると、我が身にも当てはめてみたいと思うのである・・・





【本日の読書】
 
 

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