2025年11月16日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その16)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子在川上曰、逝者如斯夫、不舍晝夜。
【読み下し】

【訳】
先師が川のほとりに立っていわれた。「流転の相すがたはこのとおりだ。昼となく夜となく流れてやまない」

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 「万物は流転する」と唱えたのは古代ギリシャの哲学者ヘラクレイトス。現代でも通じる実に深い言葉だと思う。時間は常に流れており、時間の経過とともにあらゆるものは変化していく。それは川の流れも同様で、川のほとりに立ってその流れを見ていた孔子が感じたのもそんなことなのだろう。我が国でも平家物語で「諸行無常」が唱えられたが、同じ事だと思う。楽しいひと時も永遠には続かない。逆に言えば辛い時も長くは続かないのであるが、楽しい時が終わってしまう方が、残念感が強いように思う。

 それにしても川は不思議である。地上に降り注いだ雨が川になって流れるという理屈はわかるが、それが途切れる事なく(途切れるのもあるだろうが)流れ続くのは実に不思議であると思う。それは温泉が滔々と湧き出続けるのも同じであるが、少なくとも日本の大河川は日本の歴史が始まって以来ずっと流れ続けているわけである。理屈を説明されてもどうにも不思議が止まらない。そしてその流れは決して同じものではない。同じ水に見えても同じではない。上流から今も途切れる事なく流れてくる。

 子供の頃、母方の祖父の家に遊びに行ったが、家の前には小川が流れていた。私が行く時は大抵親戚中が集まってくる時であった(たぶんお盆の時だと思う)が、中に1人わんぱく坊主がいて、玄関にある靴やサンダルを片っ端から小川に流してしまう子がいた。流れに乗って(かなり早い流れだった)靴やサンダルが流れていくのが面白かったようである。当然、大人に怒られていたが、本人はどこ吹く風で何度も繰り返していた。今も祖父宅の跡地を訪れるたびに今も流れるその小川を見てはその子を思い出すのである。

 川の流れは時の流れに例えられることもある。我々は小舟に乗って現在を流れている。それは一方通行で、遡ることはできない。振り返ってみれば、流れてきたところはわかるが、戻ることはできない。SFでタイムマシンの話がよくあるが、現実的にどんなに人類の科学が進歩してもタイムトラベルはできないと思う。それは川の流れを見ていると実感できる。振り返ってみれば流れてきたあとはわかるが、そこにある水は自分の知っている水ではないわけで、例えなんらかの方法で上流へ遡ってもそこに流れている水はかつてとは違う水なのである。

 子供の頃、立会川の近くに住んでいたが、生活排水垂れ流しの汚い川であった。それでもなぜか川の流れを見るのが好きで、幼稚園の行き帰りによく欄干から眺めていたものである。その後、埋め立てられてしまって今は道路になっている。また、結婚してからは近所に白子川という小さな川が流れていて、よく子供を連れて図書館への行き帰りに自転車を止めては一緒に眺めていた。鯉や鴨や名前もわからない白い鳥がいて子供も楽しめたのである。哲学的な思考とは別に、近くに川のある生活というのはいいと思う。

 流れる川がどうかという思考はともかく、近所に川があり、魚がいて水鳥が飛来する環境というのは個人的には大好きである。夫婦の別居によってそこを離れてしまったのは、残念で仕方がない。しかし、それもまた流転なのだろう。この先、どうなっていくのかはわからないが、時の流れという大きな川に舟を浮かべている身としては、流れに身を任せていくしかない。その中で多少右や左へ舵を切れたとしても、大きな流れの中では小さな動きなのだろう。

 これからあとどれくらい舟を浮かべていられるのかはわからない。何年かするとまた今とは違う生活を送っているかもしれない。万物は流転するものであり、この先どうなっていくのかはわからない。それでもその中で自分のできる精一杯のことをし、できれば周りの人を幸せにできるように生きていきたいと思う。自分の存在は大河の一滴であるが、意味のある一滴でありたいと思うのである・・・




【今週の読書】
 全体主義の起原 新版(1) ハンナ・アーレント  人はなぜ自分を殺すのか(新潮新書) - クリスティアン・リュック, 久山葉子  失われた時を求めて(4)――花咲く乙女たちのかげにII (岩波文庫) - プルースト, 吉川 一義




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