2016年12月18日日曜日

息子の恋バナ

小学校5年になる息子が、学校で告ったと聞いた。へぇぇと思いつつ、様々な思いが心の中を去就する。息子もそういう年になったのかとか、そういえば自分は小学校6年の時だったなぁとか、それでこれから何するんだろうとか。大人は余計なことをあれこれ妄想するものなのである。

我が身を振り返ってみると、いわゆる初恋というものは、小学校の34年頃だったと思う。当時同じクラスの女の子にほのかな恋心を抱いたものである。それでどうするということもなく、ただなんとなく「可愛いなぁ」と思っていただけである。そういう自分も可愛かったと思う。

そして6年生になると、初恋の子とは違う子に恋をした。ある日の放課後、偶然外で姿を見かけ、なぜか知らないが追いかけて声をかけた。そして自分でもなぜかわからないまま「好きだ」と告白した。後日その子に「まだ早い」と言われてショックを受けた。その後、その子とは同じ中学に進むことになり、なんでそんな残酷な運命を与えるのだろうかと神様やら何やらを恨みたくなったものである。そして、そのまま何も言わないまま互いに違う高校へと進学した。

今から振り返ってみると、もう一度くらいアタックすべきだったと残念に思う。相手も間違いなく意識していたし、多分2度目は成功していた可能性が高い。それも人生経験をいろいろ積んできたからこそであるが、残念ながら当時の私にそんな心の余裕などまったくなかったのである。そして初めて女の子と付き合ったのは、高校生活も終盤に入ってからであった

それにしても小学生で告白して、私は何をしたかったのだろう。当時女の子と付き合うという考え方も、何もなかった。多分、OKだったとしてもそれで終わりだっただろう。今だからこその知識もなかったし、2人で一緒に公園に行くなんて度胸もなかっただろう。そもそも告白したのだって衝動的なものだったし、後先考えての行動ではなかった。

考えてみるに、恋心というのはやはり人間の本能なのだろう。何していいのかわからないのに、誰に教わることもなくほのかに恋心を抱き、そして告白する。よくよく考えてみれば、実に不思議である。我が息子もそうなのだろう。2人でデートなんて考えてもいないだろうし、手を繋いで一緒に下校するなんてこともまずないのだろう。チョコレートとクッキーの交換くらいかもしれない。

突然の話ではあったが、我が息子の好きな子が女の子でまずはホッとした。最近はLGBTも権利を認められつつあるとはいうものの、我が息子には無縁であってほしいと思う。その点では娘も安心なのであるが、先日冗談半分にその時テレビに出ていたりゅうちぇるを指して、「こんな男どう?」と尋ねたら、「いいんじゃないの」という答えが返ってきて卒倒しそうになった。「お金があるだろうし、優しいだろうし」というのがその理由。妻もその意見の肩を持っていたが、「男は男らしく」が信条の自分としては、ジェネレーション・ギャップの一言では済ませたくない回答だった。

さて、これから息子はどんな風にして小学校最後の1年間を過ごすのであろうか。親父から何かアドバイスしてやれることはないだろうか、と考えてみるも多分ないだろう。よくよく聞けば、相手の女の子は学年でも屈指の人気のある女の子だという。今からそんなの射止めてどうするんだと思わなくもない。それは我が身を振り返ってみても、人生には試練が必要だと思うからである。フラれた歴史は、自分の成長にいいスパイスであったと今にして思う(ようにしている)ところである。

これからどんな展開となるのか、興味深いところではあるが、長い人生では上手くいかないことも多々あるだろう。小学校時代の淡い思い出としては、いいんじゃないかと思うところ。父親としては、まずは次の学校公開日に出かけて行って、どんな子なのか直接見てみたいと思う野次馬根性なのである・・・




【今週の読書】

  
     

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