2016年12月7日水曜日

論語雑感(学而第一の8)

[原文]
子曰。君子不重則不威。學則不固。主忠信。無友不如己者。過則勿憚改。

[読み下し]
()わく、(くん)()(おも)からざれば(すなわ)()あらず。(まな)べば(すなわ)()ならず。(ちゅう)(しん)(しゅ)とし、(おのれ)()かざる(もの)(とも)とすること()かれ。(あやま)ちては(すなわ)(あらた)むるに(はば)かること()かれ。
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君子は、「重々しい雰囲気がないと威厳がない」と孔子は語る。「人は見かけで9割決まる」とよく言われるが、確かにチャラチャラした者に威厳などない。威厳が必要か否かというところは、人によりけりかもしれないが、「信用」という面においては、見かけの雰囲気というのは確かに大事だろうと思う。かく言う私もそういう見かけのイメージに影響される部分はあり、それはこの夏の都知事選でも、髭面のミュージシャンが一部で人気を博していたが、個人的に見てくれでアウトだと思ったのもその一例である。

 議員もそうだが、銀行員だとかその他信用を重んじる職業であればやはり外見は大事である。重々しい雰囲気まで必要かどうかはともかく、「君子」と位置付ける孔子が重要視する人物像であれば雰囲気も大事だというのも頷ける。さらに「学べば頑固ではなくなる」と続く。頭の柔軟性というべきものだろう。様々な知識を得ていけば、その過程で自らの誤り、思い違いを正す経験をたくさん積むだろうし、だから新しい知識と遭遇した時も自分の考えに固執せず、白紙の状態で考えられるというのだろう。その通りだと思う。

 「忠」はたびたび語られる目上の人への忠節であろうか。そして「信」は友人などに対する誠実さなのであろう。ものによって微妙に解釈が違うのでその意味するニュアンスはよくわからないが、大まかにはそんなところだろう。そしてそこに至らぬものとは付き合うべからずと、なんとなく孔子のイメージからすると厳しい物言いとなっている。

 確かに、「朱に交われば朱くなる」の喩えもあるように、友人の影響は大きい。そうした「あるべき姿」に悪影響のある友とは付き合うなという教えは、もっともなところがある。「固いこと言うなよ」という悪魔の言葉で、私も羽目を外したことはあるし、外させたこともある。友人の影響はバカにならない。それはいい影響にも言えることで、だから友達は選ばないといけないということなのだろう。

 自らを振り返ってみると、そんな避けるべき友はいるだろうかと思うと、ちょっと思い当たらない。もともとそんなに友人付き合いは多くないこともあるし、合わない人とは友人にならないということもある。それに友人との付き合いの密度もあって、密度が薄い友人であれば、たとえ悪魔のささやきを受けても影響されないと思う。そう考えると、付き合っても影響を受けない自信があれば付き合っても良いようにも思うし、そうは言っても意志の弱い人はいるだろうから、あえて付き合うべからずとするのも理解できる。

 間違っていたらすぐ改めるというのも実に簡単なことであるが、わざわざ言うということは、難しいということの裏返しでもある。人は体面を重んじるところがあるので、自らの間違いを認めるのは簡単ではない。ただ、私個人で言えばそんなに抵抗はない。なぜなら、誤っていてもそれを認めないことで体面を取り繕う人を過去に何人も見てきており、それがいかに「みっともない」かもわかってている。それゆえに、間違えを正す方が「まだマシ」と思うからである。


 論語の言葉もさすが長い年月を経過してきているだけあって、「そうじゃないだろう」と思うものは少ない。それだけ真実だと言えるのかもしれない。特に「過ちては改むるに憚ることなかれ」は、これからも意識していきたいと思うのである・・・


【本日の読書】
 
   

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