週末に実家に行って両親と話した事をもう少し。
ダブル入院を凶事と捉え、原因はリフォームと家相ではないかと心配する親父。
いまだ原因がはっきりせず、体調も思わしくない母親。
二人から出てくる言葉はネガティブで、雰囲気は明るくない。
医者でもない私にはどうする事もできない。
「そのうち良くなるよ」と、何の根拠もない気休めを言う事も性格的にできない。
できる事といえば、「物は考え様」という話をするだけだった。
半分水の入ったコップを見て、半分「しか」入っていないと捉えるか、半分「も」入っていると捉えるか、同じ現象でも捉え方によって気持ちは随分と違う。
交通事故で車に撥ねられた親父は確かに不運だ。
入院して手術までしたわけであるから当然だ。
だが車に撥ねられて半身不随になる人だっている。
ひき逃げされてしまうケースだって時折ニュースでやっている。
入院中、母親の隣のベッドに寝ていた患者さんは末期癌だったらしい。
手術しなければいけないかもしれないと按ずる母に、「手術するって事は可能性があるってことよ、私はもうダメみたいだから」と語って、その後間もなく「退院」していったそうである。
コップに水が溢れんばかりの状態が当たり前だと考えていれば、半分「しか」なくなれば一大事だ。
だが、空っぽの状態からみれば、せめてわずかなりともと渇望していた期間、半分「も」入っている状態はありがたくて仕方がない。
両者ともコップの水の量は同じなのに、である。
「人生良い事ばかりではない」という事に疑問を持つ人はいないだろう。
必ず凶事はあるのである。
それを「こんなに酷い」と捉えるか、「この程度で良かった」と捉えるかで随分と結果は変わってくるに違いない。
「そりゃそうだ」と頷く親父に無言の母親。
「理屈はそうだが・・・」と言いたげな様子。
受け止め方の違いは心の余裕の表れだろう。
一方は良くなるだけで希望が見えているが、もう一方はまだトンネルの中。
理屈はわかっていても今現在の体調が気持ちを下に引っ張る。
「健全な精神は健全な肉体に宿る」ではないが、やはり健康な肉体があってこそ前向きな考え方につながるのだろう。かく言う自分も同じ立場になっても尚、半分「も」と言えるだろうか。やはり健康ってとても大事な事なのだ。早く出口の光が見えればと思うのである・・・
【本日の読書】
「シンプルでうまくいくコミュニケーションの技術」天野雅晴
「自由への長い道」ネルソン・マンデラ
0 件のコメント:
コメントを投稿