2025年4月20日日曜日

論語雑感 子罕第九 (その1)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子罕言利與命與仁。
【読み下し】
子(し)、罕(まれ)に利(り)と命(めい)と仁(じん)とを言(い)う。
【訳】
先師はめったに利益の問題にはふれられなかった。たまたまふれられると、必ず天命とか仁とかいうことと結びつけて話された。
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 儒教の伝統として利益の追求を戒めるところがある。日本にもその伝統が伝わっていて、士農工商の身分制度では商人が一番低い地位に置かれていた。それは現在でも伝統的に残っていて、「金が第一」などと公言しようものなら白い目で見られることは間違いない。しかし、そうは言ってもお金を否定できるものではない。人はなぜ働くのかと問われると、ほとんどの人が「お金」というだろう。そうでないという人には「無給でもやりますか」と問いたい。そこで無給でもやるという人こそ本当にお金のためではなく働いていると言えるだろう。

 先日、新入社員に企業理念について話をした。なぜ企業理念が必要なのかという話である。我々は民間企業であり、民間企業は利益追求企業である。しかし、それでは「儲ければ何でもいいのか」というと、当然そうではない。「どういう風に儲けるのか」が大事である。そこで企業理念を定めているわけである。企業理念に沿って経営活動を行い、正しく儲けようというものである。徹頭徹尾「金、金、金」ではやはり周りの尊敬は得られない。孔子の言う「天命」というほど大袈裟ではないが、それに相当するのが企業理念であろう。

 個人でもそれは同じで、「何のために働くのか」という問いに対し、一時的には「お金」ではあっても、それをどういう形でもらいたいかはまた別である。先日、転職希望者と面接をした。我が社の給与水準でいくと現状の年収より下がってしまう。損得だけで考えれば転職はしないであろう。しかし、その彼は今の職場ではできないことができるという理由で、あえて年収ダウンを呑んで転職を決めた。お金が第一ではあるが、お金がすべてではない。あえて言うなら「お金+α」のトータルバリューと言える。

 私の前職の社長は「金がすべて」という考え方であった。「何をして儲けるか」というよりも「いくら儲かるか」が大事という考え方であった。「顧客満足」の追求と言ってもそれがいくら儲かるのかと考え(大抵それはいくらと決めることは難しい)、そんな事を考えなくても儲けられればそれで良いんじゃないかと公言する人であった。経営の事がまるでわかっていなかったという事もある。大金持ちのボンボンで、とにかく「通帳の0が増えるのを見るのが楽しい」と公言して憚らなかった。最終的には社員全員を切り捨てて会社を売却して売却代金を独り占めした人だったが、それが必ずしも企業価値に見合わない安値になったのも当然かもしれない。

 私もそんな裏切りにあい、再就職先を探したが、最終的に候補に残ったのは2社。単純に年収だけならもう1社の方が高かったが、「仕事のやり甲斐」、「面白さ」という点で今の会社を選んだのである。そして働きを認めてもらい、今では年収も選ばなかったもう1社よりも大幅に増えている。お金も大事であるが、「何ができるか」も大事である。結局、今仕事が楽しいと感じられるのも、「お金以外の価値」を追求した結果である。「天命」とか「仁」などというつもりはないが、お金とそれ以外とをバランスよく追求する事が大事という点では同じだろう。

 孔子の言いたかったことはそういう事だろうと思うのである・・・

RoboAdvisorによるPixabayからの画像

【今週の読書】
 いま世界の哲学者が考えていること - 岡本 裕一朗  黄色い家 - 川上未映子






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