【原文】
子曰、奢則不孫、儉則固。與其不孫也、寧固。
【読み下し】
子(し)曰(いわ)く、奢(おご)れば則(すなわ)ち不(ふ)孫(そん)、倹(けん)なれば則(すなわ)ち固(こ)なり。其(そ)の不(ふ)孫(そん)ならんよりは、寧(むし)ろ固(こ)なれ。
【訳】
先師がいわれた。
「ぜいたくな人は不遜になりがちだし、倹約な人は窮屈になりがちだが、どちらを選ぶかというと、不遜であるよりは、まだしも窮屈な方がいい」
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ここでは、簡単に言えば金持ちと貧乏人とを対比しているのだろう。金持ちが不遜になるのは何となくイメージできる。金があればたいていのものは買えるし、たいていの事はできる。ホテルに泊まるにしてもスイートルームに平気で泊まれる。豪邸に住んで高級車を乗り回し、高いスーツに身を包み、高級腕時計をはめる。男の場合はステイタスで判断するところがある。相手がどこに努めているのか、どういう肩書なのか、いくら稼いでいるのか、そうしたところで相手との対比で判断する。当然「上から目線」にもなるだろう。
逆に金がなければ、どうしてもチマチマしてしまう。飲みに行っても財布の中身を思い浮かべてメニューを選ぶし、割り勘は当然だとしても、相手の頼むものの値段も気になる。そもそも飲みに行くのもためらえば付き合いも悪くなる。金を持っている人に対しては卑屈になりがちである。出張に行っても経費が定額であれば、なるべく安いホテルに泊まって差額をポケットに入れようとする。使えるお金の範囲が行動・思考範囲となってくるから、どうしても人間が小さく狭くなる。
男が互いに相手のステイタスを意識するのはなぜだろうか。そういう事に関してはまったく推測するしかないが、孔雀のオスが派手な羽を広げるのはメスへのアピールだそうで、それは鶏の鶏冠であったり、昆虫がメスに餌を持って行くのと同じで、生物としてのメスへのPR行動なのかもしれない。「デカさ」にこだわるのもそういう一連の意識の一環なのかもしれない。持って生まれた「デカさ」は変えようがないが、ステイタスは何とかなる。そこで達成感を得られれば、「俺はエライ」と思うのも道理である。
実際、車を例に取ると、私は車にはほとんど興味がない。どんな車だろうと「動けばいい」と思うクチである。社会人2年目に初めて買った車は日産マーチであったが、その車を選んだ理由は、「13万円」という車体価格である(自賠責を取られて合計で40万円くらいになったのは誤算だった)。銀行の同僚にはローンを組んで300万円もする車を新車で買う者もいたが、興味のない身にはうらやましくもなんともなかった。しかし、金を手にするとフェラーリに走る人がやはりいる。
金持ちがフェラーリを買うのは、やっぱりステイタスなのではないかと思う。車は運転する者には車体は見えない。故障率では日本車の方が圧倒的に低いだろうし、乗り心地が特別にいいわけでもない。はっきり言って「見栄」以外のものがあるのだろうかと思うが、「赤いフェラーリに乗っている」という意識が、たまらないくらいの快感なのかもしれない。我が家の目の前の豪邸の以前の主は、やはり赤いフェラーリに乗っていた。我が家は赤いプレマシーだったが、我が家のあとに赤いフェラーリを買ったのを指し、近所の子が「(我が家の)真似したんだね!」と大きな声で言うので、慌ててたしなめた事があった。私も卑屈だったのかもしれない。
そんな金持ちの不遜よりも、孔子は貧乏人の卑屈がいいとする(本当のニュアンスは違うのかもしれない)。私もかつてお金に苦しんだことがある。株式投資で失敗し、家族には言えない借金を抱え込んでしまったのである。自分の自由になるお金の中では返しきれる額ではなく、数年苦しんだのである。その時は、小銭を数えながらの生活であり、私としては卑屈にならざるを得なかった。それは精神的にもきつい生活であり、爪に火をともして困難な時期を乗り切った。もう二度とご免であり、あの思いをするなら不遜になる方がマシである。
そもそも不遜になるかと問われれば、自分は大丈夫なような気もする。何より困難な時期を体験しているだけに、倹約精神は忘れないだろうし、贅沢をしても人に嫌悪感を催すような事は控えるだろう。捨てるほどの金を手にしたら、公益財団でも設立して世のため人のためにお金を使うだろう。これは間違いなく断言できるが、一生証明できる機会がなさそうなのが残念である。むしろ、そういう高尚な意識を持っている人ほど捨てるほどのお金を手にする機会はないのかもしれない。
困難な時期にあっても、心の中はともかくとして、外見は平静を装っていたので、誰にもその事実を知られることはなかったと思う。現代の「武士は食わねど高楊枝」を地で行っていたと思う。こう考えてくると、自分の場合は不遜にも窮屈にもなりそうもない。「ええかっこしい」の自分としては、ここでも「ええかっこしい」なのだと思うのである・・・
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