論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感
【原文】
子曰、「富而可求也、雖執鞭之士、吾亦爲之。如不可求*、從吾所好。」
【読み下し】
子曰く、富に而て求む可き也、鞭を執る之士と雖も、吾之を爲さむ、如し求む可から不る也、吾が好む所に從はむ。
【訳】
先師がいわれた。
「もし富というものが、人間として進んで求むべきものであるなら、それを得るためには、私は喜んで行列のお先払いでもやろう。だが、それが求むべきものでないなら、私は私の好む道に従って人生をわたりたい。」
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日本には士農工商の歴史があり、その序列にも表れているように「商人」や「商売」に対しては歴史的に低く評価してきた経緯がある。一説によるとそれは朱子学の影響であるらしい。そしてそれは今でも生きていて、「金のために」とか「金目当て」とか言うと悪いイメージが漂う。お金を追い求めるのはどこか卑しいことという雰囲気がいまだ漂うところもある。特に技術を売り物にしているところなどは、「いいものを作っていれば売れる」というスタンスでいるところが多いのではないかと思う。
そういう我が社も技術者集団の会社であり、仕事は一生懸命やるが、そろばん勘定は苦手という人が多い。もう少し売上を意識しようと呼びかけたところ、「これからは売上だけを追及していくのですね」などと極論が出てくる始末。売上を追及するのは呼吸をするのと同じく、「意識しなくてもするべきこと」だということがわかっていないのである。「お金で幸せは買えない」とはよく言われるし、それは真実だと思うが、「お金で不幸を追い払うことができる」のもまた事実である。売上を追い求めるのは悪ではない。
個人が仕事を選ぶ時、「好きなことを仕事にしなさい」と言う意見がある。それはその通りで、好きなことをやってお金をもらい、生活していけるのならそれが一番理想的だろう。しかし、私のように「仕事にしたいほど好きなものがない」人はどうすればよいのだろうかと思ってしまう。嫌々ながら仕事をするというのも何となく居心地が悪い。一方、「やっていることを好きになる」というのなら簡単にできる。私はむしろこのタイプである。銀行、不動産会社、システム開発会社と職をこなしてきたが、どの仕事も楽しんでやってきた(銀行は後半になってからだけど・・・)。
もともと財務の仕事は面白いと性に合っていたというところはある。前職でも現職でも財務の能力を買われて転職したが、やることは財務にとどまらなかった。面白いと思って手を広げていった結果でもあるが、今は人事の仕事も前任者がやっていなかった範囲まで幅広く手を広げてやっている。さらには経験のない現場の仕事にも口を出している。実に面白い。会社に行くのが楽しいと言ってもいい。もちろん、給料にも不満はない(不満はないがもっとほしいと思っている)。給料のために働いているのかと問われると、それだけではないが、給料も大事なファクターである。
いくら楽しいと思っても無給なら間違いなくやらない。生活のためには仕事で稼がないといけない。そこは譲れないので、何のために働いているのかと問われれば、「お金のため」となるのかもしれない。ただ、胸を張ってそう言い切れないところがあるのも事実である。それは「お金のために働いているが、お金のために働いているわけではない」というのも事実だからである。もしも私に何億ものお金があり、働く必要がなかったとしても、やっぱり今の仕事は辞めないだろう。「人はパンのみにて生きるにあらず」である。
世の中には嫌々ながら仕事をしている人がいるが、私は楽しんで働いている。だからたとえお金のために働く必要がなくなったとしても、充実感を味わうために働き続けるだろう。そしてそれは今の仕事だからではなく、たぶんどんな仕事についてもそうなるだろう(人の道に外れた仕事は別である)。不動産業の前職ではルームクリーニングの仕事もあった。みんなで分担して作業をしたが、私はあえてみんなが敬遠したがるトイレ掃除を引き受けていた(メインは風呂掃除である)。それも楽しみながらやっていた。孔子のように「人が求めるものは富だから」ではないが、「仕事だから」できたと言える。無報酬ならやらない(自宅は除く)。
人が生涯を通じてやり続けることは「生きること」である。そして生きるためにはお金を稼がないといけない。だからお金を稼ぐためには何でもやるが、だからと言ってお金のために生き、お金のために働いているのではない。孔子の考え方とは、同じようでいて微妙に同じではないように感じる。私が求める道は働くことによって得られるものであり、同時にお金を稼ぐ手段である。両者が一致しているのは幸せなことだと思う。
『楽しみながら生きよ 悲しみながら生きるよりその過ぎゆく時は幸いなり』(松本零士)
まさにその通りだと思うのである・・・
Gerd AltmannによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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