【原文】
子食於有喪者之側、未嘗飽也。子於是日也哭、則不歌。
【読み下し】
子喪有る者之側於食はば、未だ嘗て飽かざる也。子是の日也哭く於、則ち歌は不。
【訳】
先師は、喪中の人と同席して食事をされるときには、腹一ぱい召しあがることがなかった。先師は、人の死を弔われたその日には、歌をうたわれることがなかった。
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過去に何度も葬儀に出たことはあるが、その都度感じることがある。「この儀式に意味はあるのだろうか」と。葬儀はたいていが仏式である。通夜と告別式があり、それぞれ僧侶が読経し、参列者は焼香する。手を合わせて故人の冥福を祈る。キリスト教では花を供えたりしたように記憶しているが、あまり経験していないのでよくわからない。それ以外ではほとんど記憶にない。親族の葬儀もあったし、知人の時もあったし、友人知人の親族といったほとんど面識のない人もあった。ただ、どれも「儀式感」は同じである。
儀式は確かに大事であるが、儀式をきちんとやればいいのだろうか。例えば喪服を着て来なかったり、数珠を持って来なかったり、焼香の手続きを間違えていたりしたら不敬になるのだろうか。そもそも儀式としての葬儀に参列する必要はあるのだろうか。そんな事をいつも考えてしまう。例えば親族や親しい友人の葬儀などで、手伝いをしたりするのであればそういう意味もあるだろう。また、死顔を見ておきたいとか、直接別れを告げたいという気持ちがあれば、それもいいだろう。しかし、そういうものがなければ参列する必要はないと思っている。
と言うのも、儀式に参列することがすなわち故人の死を悼むことかと言えばそうではないからである。葬儀に義務感だけで参列するのと、葬儀には参列しないが故人を偲んで過ごすのとどちらがより大事だろうかと考えてみると、私は後者の方である。かつて大学のラグビー部の大先輩の葬儀に参列したことがある。学生時代に自宅に招いて食事を振る舞ってくれたこともあり、私も万難を排して葬儀に参列した。それは参列して見送りたいという気持ちからである。多少の葬儀の手伝いもあった。そこで1通の弔電が披露された。その場に参列していない方からのものであった。
その方は遠方に住む故人のラグビー部時代の同期の方。遠方であるのと高齢によるもので葬儀には参列できない無念が表れていたが、「100mを11秒台で走った君の〜」という弔電のフレーズが心に残っている。どこか遠くのご自宅で、故人との思い出を噛み締めていたのだろう。そんな弔電は故人も嬉しかったに違いない。当たり前だが、大事なのは儀式に表される「形」ではなく気持ちだろうと思う。例えば魂のようなものがあって、自分の死をみんながどう捉えているのかがわかるとしたら、自分を思い出してくれるのが一番であると思う。
かつて伯父の葬儀で感じたことだが、葬儀の場でしめやかにする必要はないと思う。伯父の葬儀では久しぶりに親戚縁者がみんな集まって、ワイワイガヤガヤと賑やかであった(さすがに「儀式」の間は静かだったが)。そしてそれがいいと思った。みんながしめやかにするより、楽しそうに騒いでいた方が伯父も喜んだだろうと感じた。それが伯父の「招集」だとさえ思ったのである。飲んで食べて「今何してる?」「こんなことがあったよね」という会話で賑やかな方が、伯父も喜んだに違いないと思う。
故人を悼むのに大事なのは、あくまでも気持ちであると思う。悼む気持ちがあれば、酒を飲んだって、腹一杯食べたって、歌を歌ったっていいだろう。大先輩の葬儀ではみんなで部歌を歌った。故人が喜ぶと思うなら、歌を歌ったっていいだろう。孔子の態度もそれが孔子の故人に対する気持ちの表し方だったのだろうと思うから悪いとは思わない。ただ、その形が大事なのではない。その形だけを真似て、腹一杯食べている人を非難するのは間違いだろう。
さらに言えば、葬儀の時だけでなく、やはり折にふれて故人を思い出すことも生きている者の悼み方だと思う。形式的に葬儀に参列して終わりではなく、時折思い出すことも故人を偲ぶ上では大事である。そう言えば、昨年のこの時期に友人を2人亡くしている。もう1年になるのだなと改めてその友人が過ごさなかった1年を思う。形に囚われることなく、時折思い出すことで故人を悼みたい。気持ちの部分をあくまでも大事にしていきたいと思うのである・・・
svklimkinによるPixabayからの画像 |
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