先日読んでいた本の中に、スマホの所有が増えることでうつ病が増えているということが書かれていた。それは他人と自分を見比べる機会が爆発的に増えたことが原因だと著者は分析し、「他人と自分を比べない方がいい」というのは幸せの絶対的原則だと言う。そうなのかもしれないと思う。「他人は他人、自分とは違う」ということは当たり前なのであるが、どうしても「そうは言っても・・・」という気持ちが出てしまう。SNSで見た他人の投稿を羨ましく思い、「どうして自分は・・・」と思ってしまうことは私も実感するところである。
大学時代、ともにグラウンドで汗を流した友人は、外資系のコンサル会社でかなりの地位まで上り詰めた。たぶん、年収は億を超えるのではないかと思う。それはもちろん本人の努力の賜物なのであるが、自分もそういう道を歩めたのではないかと、どこかで思ってしまう。また、会社が上場したことによって、従業員持株会を通じて持っていた株が億単位になってしまった知人もいる。それは単なるラッキーではあるが、自分は就活の時にどうしてそういう会社に目が留まらなかったのだろうかと思ってしまうところがある。
男も定年年齢が近くなると、「社会人としての成果」が社会での地位と共に家族や持ち家や車などに表れてくる。そうした他人の成果を自分と比較すると、どうしても「差」を感じてしまう。特にそれが表れるのが車であるように思う。私はどちらかと言うと車は「移動手段」であり、「ステイタス」を感じない。正直言って、車など何でもいいと考えるので、国産のファミリーカーで10年乗っていても何の心理的抵抗はないが、それでも知人がフェラーリやポルシェなどに乗っているのを見ると心中穏やかならざるものがある。それは車に対する嫉妬というよりも、「稼ぎの差」あるいは「ゆとりの差」に対する嫉妬かもしれない。
そんなことを考えると、「他人と自分を比べない方がいい」というのは事実である。しかし、である。逆に「他人と自分を比べて優越感を感じる」というのもまた真実である。自分より遅れている人間を見て安心するのもまた人の真実。それは自分より劣っている場合だけではなく、同程度も含まれる。自分と同じような会社に勤め、同じような家に住み、家族の状況も似ていて、さらに同じような車に乗っているとなれば、そこに安心感を感じる。その場合、「他人と自分を比べる」というのは、一つの大きな安心感を得られる手段である。
もっとも、「スマホの所有が増えた」という状況と、「うつ病が増えた」という状況の間には、確かに因果関係があるようにも思う。なぜなら、 FacebookでもInstagramでも、投稿するのは大体がいい情報であろう。人に知られたくない恥ずかしい情報はそもそも投稿しないだろう。言ってみれば、他人に自慢したくなるような情報、とまではいかなくても、少なくとも知られても恥ずかしくない情報が投稿されるだろう。となれば、それを見た人が安心したり優越感に浸れたりすることはあまりないということになる。
本来、幸せの尺度というものは、自分の中に絶対的なものがあればそれに越したことはない。他人がどうあれ、自分はこれに一番幸せを感じるというものを実現できていれば、他人を気にするまでもなく、それだけで満足するはずである。だが、必ずしもそういう絶対的基準を誰もが持っているわけではない。他人と自分との比較は、スマホを見なくとも日常的に避けられないことである。であれば、相対的基準の中で満足する、あるいはそこまでいかなくとも悲観的にならないという程度に収めることもできると思う。
例えば、先の億を稼ぐ友人であるが、彼には子供がいない。私にとって、「億の収入」と「子供がいること」を比較して、どちらがいいかと問われれば答えるまでもない。子供が生まれ、ヨチヨチ歩きから成長していく過程を見守ることができる喜びは、とても億の収入とは比較できない。億の収入のある生活と子供がいる生活とどちらを選ぶかと問われたら、迷うことなく子供のいる生活を選ぶ。そう考えれば、億の収入のある生活もフェラーリのある生活も羨ましいとは思わなくなる。
そもそも、人は上を見れば限りがない。「一生に一度くらいハワイに行きたい」と思う人がいたら、ハワイに行ければ満足感を得られるだろう。だが、それが実現すれば毎年行っている人が羨ましくなる。そして毎年行けるようになれば、1週間ではなく2週間行きたくなるし、ホテルのグレードもアップしたくなるし、エコノミーではなくファーストクラスに乗りたくなるものだろう。「もっと、もっと」というのは人間の自然な欲望であり、それが頑張るモチベーションになったりするから悪いことではない。健全な程度にコントロールできていれば問題はないと思う。
また、下を見て安心するというのもいかがなものかというところはある。「これでいい」と思ってしまえば成長はない。ビジネスでも「現状維持思想」は一番危険である。要はバランスであろう。自分と他人と比べるのは仕方ない。現代社会では、意識しなくとも他人との差は目についてしまう。その時、大事なのは上を見て落ち込むのではなく、「自分も頑張ろう」と健全な方向に感情を向けることであろう。そしてどうしてもそれが無理な場合は、横や下を見て自分はまだマシだと安心感を得ることも必要だろう。そのバランスをうまく取っていくことが、幸せに生きるための条件の一つであるように思う。
浮かんで驕らず、沈んで腐らず。うまく精神の安定を保ちながら、他人の姿を見たいと思うのである・・・
Myriams-FotosによるPixabayからの画像 |
【今週の読書】
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