【原文】
宰我問曰く、
「仁者雖吿之曰、『井有仁焉。』其從之也。」
子曰く、
「何爲其然也。君子可逝也、不可陷也。可欺也、不可罔也。」
【読み下し】
宰我曰く、
仁なる者は之に吿げて井に仁者有り焉と曰ふと唯も、其の從ふ也之か。
子曰く、
何爲れぞ其れ然らむ也。
君子は選る可きも、陷るる可から不る也。
欺く可きも、罔ふ可から不る也。
【訳】
宰我が先師にたずねた。
「仁者は、もしも井戸の中に人がおちこんだといって、だまされたら、すぐ行ってとびこむものでしょうか。」
先師がこたえられた。
「どうしてそんなことをしよう。君子はだまして井戸まで行かせることは出来る。しかし、おとし入れることは出来ない。人情に訴えて欺くことは出来ても、正しい判断力を失わせることは出来ないのだ。」
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「騙す方が悪い」のか、「騙される方が悪い」のかというのは、よく言われることである。それは考えるまでもなく、「騙す方が悪い」のであるが、騙される方にまったく問題がないということでもない。オレオレ詐欺が世間で騒がれ始めたのはもう随分前であるが、その被害はなかなか尽きることがない。何故だろうかと不思議でならない。銀行で振り込みをしようとして銀行員に止められ、それでも振り込みをしようとして駆けつけた警察官に説得されてようやく騙されていることに気づいた、なんてお年寄りの話を聞くと、「騙す方が悪い」とも言いにくくなる。
騙される人というのは、相手の言うことを疑いなく信じ込んでしまうのだろう。騙す方も言葉巧みに話すから、信じてしまうのも無理はない。オレオレ詐欺に限らず、投資詐欺や結婚詐欺など詐欺の類は昔から尽きない。騙されないためには、「本当かな」と疑う健全なる猜疑心が必要であり、立ち止まって冷静に考えられるなら、調べたり人に聞いたりすることである。そうすれば「おかしい」と思うに至るだろう。さらに騙される一因は、「欲」であると思う。胡散臭い儲け話に乗ってしまうのも、儲けたいという「欲」が猜疑心を失わせてしまうのだと思う。
年寄りがオレオレ詐欺に簡単に引っかかるのは、その人がもともと人を疑わない善人だということもある。昔読んだ漫画の中で、「疑う」ということは、すなわち「悪の心(または知識)」があるからであるというようなセリフがあったのを覚えている。それを読んで確かにそうだと思った記憶がある。「疑う」ということは、「相手が自分を騙しているかもしれない」と思うことである。「騙す」という行為を知っており、「相手がそれを自分にしているかもしれない」と相手を信用しないという悪の知識である。悪の知識があるからこそ、騙されることを回避できるのであるというのも何だか複雑である。
自分は騙されないと思っていても、お金を出してしまうケースもある。例えば、家族や友人から金を貸してくれと頼まれた時、当然ながらある程度の事情は聞く。その時、「もしかしたら騙されているのでは」と思ったらどうするか。一応、その懸念は伝えて再考を促すが、それでも貸してくれと頼まれれば、貸すこともある。自分なら絶対に出さないであろうお金をその人物が出すと判断したのなら仕方がない。そこで「そんな金は貸せない」とするのも一つの判断であるが、その人物が信頼できる人物であれば、私はたぶん貸すだろう(もちろん、貸せる範囲で、ではあるが・・・)。
オレオレ詐欺の被害が毎日のように報じられていた頃、一番心配だったのが実家の両親である。老齢で判断力はおぼつかなくなっているし、「金を借りる時は直接会いに行くから」と念押ししていたが、それでも心配であった。ところが当の本人はケロッとして、「大丈夫」と言う。本人の「大丈夫」ほど怪しいものはないが、実際に何度かオレオレ詐欺の電話がかかってきたそうであるが、私も弟もまず自分の名前を名乗っていたからすぐにおかしいと気づいたそうである。しかし、一方で「そんなお金どうしよう」と瞬時に思ったことの方が大きかったそうである。
「ない袖は触れぬ」と言うが、それは真実。100万円単位のお金を動かすということが普段ない母親にとってそれは一大事。そんな感覚も幸いしたようであるが、確かに大金を簡単に動かせる感覚の人は危ないかもしれない。ニュースで1,000万円単位の被害にあった人のことが報じられているのを見たことがあるが、「お金があるから騙される」のも真実である。ただ、お金のない庶民でも「寸借詐欺」は避けられないかもしれない。「ちょっと小銭を貸してほしい」という程度の詐欺であるが、これはなかなか断りにくいところがある。
先日、公共の喫煙スペースにいたところ、怪しげなおじさんが「タバコ一本ください」とその場にいた人に声をかけていた。まずは若い女性が「ごめんなさい」と言い、次の若い男性が「一本しかないので」と断り、その次の人も断っていた。私のところには来なかったが、来たらたぶん一本恵んであげただろう。詐欺とは違うが、人はちょっとした簡単な頼み事は断りにくいものである。「みんなしっかり断れるんだなぁ」と1人妙な感想を抱いていたが、頼み事を「断りにくい」という感情も無視できないものがあるかもしれない。
お金を貸す場合、私はまずは相手を見る。信頼できる相手かそうでないか。私には友人の少ないのが幸いし、「こいつになら騙されても仕方がない」と思える友人は少ない。という事は、大抵の人の話、特にお金が絡む話は身構えて聞く事になる。基本的に「楽してお金は手に入らない」という考えが自分には根付いているから、「美味しい話」にはまず警戒感から入る。確たる断言はできないが、まず騙される事はないんじゃないかと漠然と思う。しっかりした考え方があれば、誰もが騙されることもないのではないかと思う。
そうは言っても、というところはある。何より怖いのは「欲と慢心」だろうか。「自分は大丈夫」と慢心する事は避け、健全なる猜疑心を大事にしていきたいと思うのである・・・
Mert ÖzbağdatによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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