2021年10月31日日曜日

論語雑感 雍也第六(その6)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子謂仲弓曰。犂牛之子。騂且角。雖欲勿用。山川其舎諸。
【読み下し】
子(し)、仲弓(ちゅうきゅう)を謂(い)いて曰(いわ)く、犂(り)牛(ぎゅう)の子(こ)も、騂(あか)くして且(か)つ角(つの)あらば、用(もち)うること勿(な)からんと欲(ほっ)すと雖(いえど)も、山川(さんせん)其(そ)れ諸(これ)を舎(す)てんや。
【訳】
先師は仲弓のことについて、こんなことをいわれた。
「まだら牛の生んだ子でも、毛が赤くて、角が見事でさえあれば、神前に供えられる資格は十分だ。人がそれを用いまいとしても、山川の神々が決して捨ててはおかれないだろう」
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 世の中は結局は自分の実力で生きていかないといけない。いくら親が子どもの幸せを願ったとしても、子どもの生涯を通じて面倒を見るわけにもいかない。子どもはどこかの時点で独り立ちして、自分の足で歩いて行かないといけない。そしてその時期は、遅くとも社会人になる時であろう。

 親が立派だと子どもも立派に育つというわけでは、もちろんない。以前、親が内科医で開業している医院の2階に子どもが歯科医を開業する例があった。親としては、当然自分の跡を継がせたいと思ったのだろうと思うが、親の心子知らずで、子どもはあまり熱心に勉強しなかったのだろう。それで歯科医にしかなれず、結果として内科医と歯科医のコラボが実現することになったのだろうと想像した。

 またある上場企業の創業者は、自分の息子を後継者として育てようとしたのだろう、大学卒業後は懇意にしていた同業社に預ける形で就職させ、30になって呼び戻して自分の会社の取締役にした。しかし、その後事情あって息子共々退社し、ともに別法人を立ち上げ、息子を社長にした。社員は父親が集めてきた。しかし、やがてその父も亡くなり、息子も後ろ盾がなくなるが、温室育ちの息子に会社経営などできず、その会社はたちまち傾いてしまった。

 トンビが鷹を産むという諺は、古くから親とは無関係に子どもは育ち、しばし子どもが親を超える存在になるということが当たり前のようにあったということを意味している。成功する者は、血筋とは無関係に本人の努力によるところは当たり前である。しかし、世の中は親を見て子どもを想像してしまうところがある。親が偉いから子どもも偉いのかというと、そんなことはもちろんないことを誰もが知っているのに、である。

 子どもの頃は、よく「金持ちの家に生まれたかった」と思ったものである(今でもそう思う)。欲しいモノはなんでも買ってもらえるし、好きなこともできる。社会人になっても、自分ではとても買えないような高額なマイホームを購入したりする人を見るにつけ、「親の援助があるんだろうな」と思ってしまう。俗に言う「シックスポケット」の現代では、その影響は孫にも及ぶ。

 しかし、一方、親が普通だったからこそ、自分は自立心が早くから身についたとも思う。(少なくとも金銭面で)親に頼るという選択肢を取ることを自分はしてこなかった。それで大成功というほどにはならなかったが、そこそこ社会で生きてこられたのは自立できていたからだと思う。少なくとも会社を傾けてしまったボンボン社長にはない実力が備わっていると思うが、その理由は自立してきたからに他ならない。

 社会で生きていくには、何よりも「考えること」、「熱意」、「創意工夫」という三種の神器が必要だと思う。それは孔子の言う赤い毛並みであり立派な角であるが、それは決して遺伝するものではない。世の中、決して公平ではないが、能力が遺伝しないのは世の中の公平なものの1つであると言える。つまりそれは自分でなんとかできるものであり、なんとか出来れば山川の神々に捨てては置かれぬものになれることであると言える。

 生まれ育つ環境はどうにもならないが、自分が歩く力は自分でなんとかできる。であれば、なんとかできるところをなんとかしたいものである。そういう考え方ができるのも、親が金持ちではなかったからかもしれない。そう考えると、それはそれで良かったのかもしれないと思う。今度生まれ変わったら金持ちの家に生まれたいだろうか。悩ましいところではあるが、歯を食いしばって「否」と答えたいと思うのである・・・


Mahmoud AhmedによるPixabayからの画像 

【今週の読書】

 



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