「面従腹背」という言葉がある通り、世の中では心とは裏腹に他人に合わせなければならないというのはよくあることである。サラリーマン社会では典型であるし、それはサラリーマン社会ならずともママ友同士の間だったり、ご近所付き合いだったり、人と人の間ではごくありふれていることであろう。左丘明という人物も孔子もそれを恥じるとしている。それはその通りだろうと思う。だが、その通りにならぬのもまた人の世である。
人間誰しもその人なりの考えがあり、それは必ずしも誰もが同じというわけではない。考え方が違えば、時に不快な思いをするのも事実。私も銀行員時代、部長の顔色ばかり伺う課長に辟易していたことがあったが、ぐっと堪えて課長に接していた。そうしなければ仕事に支障をきたすし、それはプロとして問題である。表面だけは「いい部下」を演じていたものであるが、それは左丘明からすると卑しむべき態度なのだろうかとふと思う。
そうではなくて、「度を越した」態度だとするなら大丈夫かもしれない。ただ、では課長は「度を越していた」かと言うと、そうも言い切れない。判断基準を「(課長として)自分がどう思うか」ではなく、「部長ならどう判断するか」に置いていただけである。簡単に言えば「忖度」であるが、会社は「部下の考え」で動くのではなく、基本はトップの考え、およびそれに基づく部長の考えであり、それを受けた課長の考えで動くものである。であれば、自分の考えより「部長がどう考えるか」に判断基準を置いていた課長の態度は間違いではない。
さすがに漫画に出て来るような揉み手擦り手で上司に寄り添うような人は見たことはないが、何を言われても自分の考えを主張できず、影でブツブツ言っている人なら山のように見ている。『きみはいい子』という映画では、ママ友仲間に馴染めず苦労する若い母親が出てくるが、そういう表面だけいかにも友達らしく振舞っている人は多いだろう。
だが、では自分の考えがすべてで、媚びへつらうのは悪いのかと言うと、まず「媚びへつらっている」かどうかはその人にしかわからないことである。先の課長もずいぶん部長に気を使っていたが、揉み手はしていなかった。呼ばれればいそいそと駆けつけていたが、本人は「媚びへつらっている」とは思っていなかったと思う。それはあくまで主観の問題であると思う。理不尽な指示に耐えなければならないこともあるが、だからと言って媚びへつらっているわけではない。
実際、バカであっても上司なら立てないといけないし、取引先であればなおさらである。それは面従腹背であっても、「関係性の維持」という意味では大事なことだと思う。気にくわないからと言って片っ端から喧嘩していたのでは仕事は成り立たない。だから人によってはストレスも溜まるのだろう。私の好きな言葉に「ライオンに勝てると思えば猫にもなれる」というものがある。表向き「いい部下」「いいママ友」「いい隣人」を演じるのは人間関係を維持する上で大事だったりする。
それは心の中では毛嫌いしている人物であっても、軽蔑している人物であっても同様である。それらにいちいち嫌だといっていたら会社勤めなんてできないし、ご近所付き合いもギスギスしたものになるだろう。なんでも心の赴くままに人と接することができるわけではない。付き合わなくて済むなら当然そうするが、付き合わざるを得ないのであれば、面従腹背もまたやむを得ない態度である。
時に表向きの顔を作るのは大事だったりする。とくに女性なんかはそうであろう。私も同僚の女性がいつも笑顔を向けてくれるからといって、安心しきってはいけないのではないかと思うべきかもしれない。現代社会で心の思うままに生きられるという人は、それだけで幸せなのだと思うのである・・・
Thomas WolterによるPixabayからの画像 |
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