論語もすべて名言格言であふれているわけではない。時に意味のわからないものもある。今回の言葉もその1つ。微生高という人物が、酢をくれと言われ、それを隣からもらって与えたことを孔子は批判している。なんとなく褒められこそすれ、批判されるようなことではないと思う。酢をくれと言われたが、自分は持っていなかった。「持っていない」と断れば済むところ、わざわざ隣からもらってきて与えたというのである。微生高とは、いい人のように思えてならない。
人に何かを頼まれた時、断るのは簡単である。特にそれが自分の手に負えない時、断るのは致し方ないこと。金を貸してくれと言われ、持っていれば貸せるが、持っていなければ貸せない。金に限らず、車でも何でもものに関して言えばすべて当てはまる。会ってくれと言われても、時間が空いていれば会えるが、別の外せない予定が入っていたら会うことはできない。行動においてはすべてその通りである。しかし、微生高はそれを乗り越えている。
自分は持っていないものを「隣からもらってくる」という手法で「持っていない」という問題をクリアしている。相手の頼みに対し、「できない」とそのまま答えるのではなく、「何とかできないだろうか」と考えたわけである。そしてそれを「隣からもらってくる」というアイディアで克服している。微生高に酢を頼みに来た者は、それで(酢をもらうという)目的を達成している。相手の問題を解決しているわけであるから、微生高という人物は「できる」人物と言える。なのになぜ孔子は批判するのだろう。
1つには文化の違いがあるのかもしれない。なにせ2,500年も前の、しかも異なる文化圏の話である。ひょっとしたら現代の日本とは違う感覚の常識があるのかもれない。たとえば日本では人に何かをしてもらったら、「お返し」をする。しかし、中国では「お返し」はしないらしい。と言うのも、お返しをすると、「これで貸し借りチャラ」というニュアンスで捉えられるらしく、ドライに思われるようである。目先のお返しではなく、「いつかもっと大きなことで返す」というように考え、お礼はしないのだとか。末長い関係をいたしましょうというらしい。これはこれでなるほどである。
そうした文化の違いがあるかもしれず、「さすがの孔子様もおかしなことを言う」と決めつけるのは早計である。論語の研究者などごまんといるだろうから、単なる解釈だけではなく、その言葉の裏側にある意味も含めて教えてもらいたいと思うところである。そもそも、人の真意などはそうそうわかるものではない。表面上の言葉だけを捉えると誤って真意を捉えることになる。マスコミのようにあえて悪意的に言葉の一部を切り取って都合のいいように報じるとまではいかなくても、誤解程度なら多々あるだろう。
我が実家の母親は、その見本のような言動で人をイラつかせる。結婚したばかりの頃、お中元やお歳暮を送れば必ずケチをつけられたものである。ビールを送れば「お父さん最近飲んでいないんだよね」、コーヒーを送れば「最近胃が悪くて・・・」といった具合である。なぜ素直にお礼を言わないのか。なぜ送った者が気を悪くするようなことを言うのか。我が家の嫁姑関係が崩壊したのはそうした母親の言動が間違いなく一役買っている。当時は腹立たしく思ったものである。
今に至ってもそれは変わらず、最近は母の日に胡蝶蘭を送ったが、「もらっても育て方が・・・」とまたブツブツ言う。しかし、それ以降、行くたびに「まだ咲いている」と嬉しそうに言うし、ご近所さんが訪ねてくると、「ほらこれ」と玄関において見せびらかしている。たぶん、内心は嬉しいのであろうが、それを素直に表現しないという悪い癖なのである。親子だから無理にでも好意的に解釈してくれるが、他人には通用しない。父によれば、母のそういう裏腹な一言は、父の親族間でも誤解を招きまくっていたと言う。
孔子の時代には、人はその人を信用して頼みにきているのであり、ないならないで断るというのが正しいという常識だったのかもしれない。なのに(頼んだ人からすれば)よく知らない隣の人にもらって与えるなど、言語道断だったのかもしれない(何が入っているかわからないし・・・)。論語に載せて語り継ぐくらいだから、おそらく微生高の行為はどこか間違っていたのだろう。
時に人の言動に惑わされることなく、腹の立つことも一旦堪えてその真意を冷静に探ることが必要だろうと思う。自分の常識が相手の常識と常に一致しているとは限らない。自分の正論が相手の正論と同じとも限らない。心の内は言葉では伝わらない。そんなことを改めて意識したいと思うのである・・・
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