〔 原文 〕
子曰。我未見好仁者惡不仁者。好仁者無以尚之。惡不仁者其爲仁矣。不使不仁者加乎其身。有能一日用其力於仁矣乎。我未見力不足者。蓋有之矣。我未之見也。
〔 読み下し 〕
子曰わく、我未だ仁を好む者、不仁を悪む者を見ず。仁を好む者は、以て之に尚うる無し。不仁を悪む者は、其れ仁を為さん。不仁者をして其の身に加えしめず。能く一日も其の力を仁に用うること有らんか。我未だ力の足らざる者を見ず。蓋し之れ有らん。我未だ之を見ざるなり。
【訳】
先師がいわれた。――
「私はまだ、真に仁を好む者にも、真に不仁を悪(にく)む者にも会ったことがない。真に仁を好む人は自然に仁を行なう人で、まったく申し分がない。しかし不仁を悪む人も、つとめて仁を行なうし、また決して不仁者の悪影響をうけることがない。せめてその程度には誰でもなりたいものだ。それは何もむずかしいことではない。今日一日、今日一日と、その日その日を仁にはげめばいいのだ。たった一日の辛抱さえできない人はまさかないだろう。あるかも知れないが、私はまだ、それもできないような人を見たことがない」
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「仁」は、「人を思いやる気持ち」というように説明されている。どんな時でも自然にそういう気持ちを持ち、行動できるのであれば申し分ないのであろうが、なかなか聖人君子でもない限り難しい。「不仁」はその反対であるから、「人を思いやる気持ちがまったくないこと」であろうか。それを心から憎むということだろうが、反語の反語でよく意味が理解できない。ただ、要は両極端の人はなかなかいなくて、大抵の人は中間だということなのだろうと思う。
この話を聞くと、よく「性善説」「性悪説」と言われていることが思い浮かぶ。人間の本性は基本的に「善」なのか「悪」なのかを唱える概念である。どちらなのかと考えると、「どちらでもない」と個人的には考える。人間が行動をするにあたって良い行いを取れるかそれとも悪事をなすかは、あくまでも「環境」の要因次第だと思う。もちろん、同じ環境であれば、同じ行動を取るというものでもない。だが、人の心の中には常に善と悪が混在していて、時に応じて出現するものだと思うからである。
クリストファー・ノーラン監督の『ダークナイト』は、人間の持つ善悪を見事に表した名作だと思う。ここではジョーカーに操られて悪事に加担する人が多数出てくるが、すべてが悪人というわけではない。病気の家族を抱えた警官が医療費欲しさにジョーカーに協力してしまうケースもある。協力と言っても情報を提供するものだが(もしかしたら本人は結果までは予測できなかったのかもしれない)、その根底にあるのは欲望に基づく悪意ではなく家族への愛である。これを悪人と呼べるかは難しい。
また、避難民を満載した2隻のフェリーが爆弾を仕掛けられる。双方に起爆装置があり、助かりたければ先にもう片方のフェリーを爆破しなければならない。ジョーカーの仕掛ける悪業は真に人間を追い込む。しかし、囚人が満載されたフェリーで、1人の大柄のいかにも悪人風情の黒人が、躊躇する警官から起爆装置を取り上げると迷うことなくそれを海に捨てる。自分が死ぬかもしれない状況下で正しい行動が取れる立派な黒人の行動が感動的なのであるが、しかしそもそもは何か罪を犯しているから囚人なのである。善人の悪行、悪人の善行というわけである。
『ダークナイト』を観ていると、善悪の単純な常識をひっくり返される。人間は常に善であり、悪である。どちらかに決められるものではないのが普通である。なのにジョーカーは常に悪であり、バットマンは常に善の立場に立つ。だから映画も面白い。それは今回の「仁」にも当てはまる。孔子も同意見で、だから常に仁であろうと無理するのではなく、「今日一日」だけ仁に励めばいいとしているのだろう。これもその通りである。イチローの言う「小さいことを積み重ねるのが、とんでもないところへ行くただひとつの道」という理屈と同じである。
大きな夢を目指すのもむちろん素晴らしいことだと思うが、50の半ばを過ぎると日々毎日心穏やかに平穏に過ごしたいと思う気持ちが強くなる。その日その日を人生最高とまでいかなくても、良き日として過ごしていくことが、「とんでもないところ」へ行く道なのかもしれないし、その「とんでもないところ」というのが、実は「途中で不運な形で人生を暗転させることがない」ということなのかもしれない。「一日一善」という言葉もみなこれに通じているようにも思う。
【本日の読書】
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