2009年5月9日土曜日

夫婦喧嘩の風景1

   
我が家も世間並みによく夫婦喧嘩をする。
といっても口論だけで、しかも結末は大概私が謝るかそれとも自然に元に戻るか、である。
妻のほうから謝る、という事はこれまでも決してなかったし、これからもたぶんないと思う。

妻の言い分は簡単だ。
「悪くもないのに謝る必要はない」
だが、喧嘩は互いに自分が正しいと思っているから喧嘩になるのだ。
そんな事を言っていたら仲直りなんてできるわけがない。

かつていつも私が謝ってばかりだから、こちらが謝らなかったらどうなるか試してみたことがある。
一週間くらいお互い口を利かなかったが、必要最小限の会話というのは出てくるもので、そうこうしているうちに大概私が意地を張るのがバカらしくなってしまい、自然に元に戻るのであった。
妻は「ごめんね」とはとうとう言わなかった。
意思が強いというのか、頑固というのか、その一貫したスタイルは立派である。

そもそも謝るという行為は、自分が悪かったと認める事ではあるが、主張が間違っていたと認める事とイコールではない。少なくとも喧嘩した時は、たとえ自分の意見は間違っていないと思っても相手との関係を修復するためには必要な行為なのだ。
あえて言うなら、「喧嘩という結果を招いてごめんなさい」となるだろう。
私はそう考えているので謝る事自体に抵抗はない。

だが、そんなことを例え妻に言っても馬耳東風だから、最近では妻の謝罪などはすっかり諦めている。「ごめんなさい」などとしおらしく言われたら、と憧れにも似た気持ちを抱き続けているが、どうやらそんな夢は間違っても実現しそうにない。「いくつになっても夢を持て」とはよく言われるが、儚い夢はかえって体によくないと反論したくなる。

妻に言えない分は子供に言う。
「友達と喧嘩しちゃだめだよ」などと言ったって、大人でさえ喧嘩するのだからそんなのは現実的じゃない。だから、「友達と喧嘩するのは仕方ないけど、喧嘩しちゃった時は自分からごめんねって言うんだよ」と教えている。「『ごめんね』って謝る事は、悪い事をしたからという意味じゃなくて、『喧嘩してごめんね』っていう意味だよ、だから悪くなくても仲直りするために謝るんだよ」と教えている。

妻の聞いている前でわざとらしく言ったりするが、どうやら自分にも当てはまると思うほど感受性は高くないらしい。幸い子供は私の教えを守ってくれているようである。
よく「今日友達と喧嘩しちゃった」と報告してくれるが、そのあとどうしたか聞くと、「ごめんねって言って仲直りした」と答えてくれる。今のところはとっても素直だ。
そしてそれが救いである。

儚い夢は夢のまま終わるとも、その夢が我が子の中でしっかりと芽吹き、やがては大きな花となっていつか誰かに幸をもたらす・・・
そう考えれば我が無念も無念足りえず、反面教師も反面教師ゆえに存在意義はある。
そう考えて未来を明るく見つめたいと思うのである・・・



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