どれだけ多くのものを与えたかではなく、
そこにどれだけの思いやりが注がれたか、ということなのです。
マザー・テレサ
妻とは自分がこしらえた作品であることを夫は知るべきである
バルザック
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ある夫婦の相談を受けた。夫の言い分、妻の言い分それぞれであるが、一方の言い分を聞くと「もう一方が悪いわな」と思うものであるが、もう一方の言い分を聞くと、「なるほど、それも一理ある」と思う。
「夫婦喧嘩は犬も喰わぬ」とは昔から言われること。
放っておくべき事かもしれないが、相談を受けた以上はそうも言っていられない。
根本原因は、といえば「コミュニケーション不足」である。
家庭でも職場でも、凡その人間関係の不具合はすべてコミュニケーションに原因がある、と個人的には思っている。この夫婦もそうである。
互いにアツアツの新婚時代であれば、相手のミスにも寛大だ。
忘れていたりしたら自分が代わりにやってあげたりするものである。
ところが10年以上もたつと、次第に相手のミスを責めるようになる。
この夫婦は共働きである。
家事は当然、共同作業。
だが二人の間に十分なコミュニケーションはなく、互いに自分のテリトリーを決めている。
自分の仕事以外は「相手の仕事」。
ところが二人のテリトリーを足すと、どうも家事全般をカバーしていないようである。
となると、当然相手の仕事と思っている事が実は担当が決まっていなかったりするのである。
夫は「やる事はやったから気晴らしに飲みに行く」
妻は「夫はすぐに飲みに行ってばかり、私ばかり真面目にやっていられない」
そうして放置された家事が、双方のストレスとなる。
それに子供の問題と同居する(妻の)両親との関係が拍車をかける。
もしも二人の間に、「まず相手のために自分は何をしてあげられるか」という気持ちがあったなら、問題はたちどころに解決してしまう気がする。
ケネディ流に言うならば、「相手が自分に何をしてくれるのかを問うのではなく、自分が相手に何をしてあげられるのかを問え」となるであろうか。
新婚時代はあったはずの気持ちが、今の二人にはない。
少なくともどちらか一方だけでも、相手の不満の声に耳を傾ける姿勢さえ見せたなら、それだけでもうまくいくと思う。逆回転して転がりだした歯車を止めるのはなかなか至難の業。お互いに原点に帰れる様な何かがあるといいのだが・・・
せめて他山の石としたいところである。
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