男と女は違う。それは生物学的な事実であり、変えられるものではない。だから「違う」という変えられない絶対的なものを前提にして考えればいいと考えている。例えば、一般的に男の方が力が強い。肉体的にも然り。したがって、ここで対等に扱うのは公平ではない。しかし、頭の中で「考える」ことについてはハンディはない。だからここの部分では「同等」とするのが公平である。近年、雇用機会均等法を始めとして女性の権利が拡張されてきているが、これは「考える」ことは同等ということからすると当然と言える。
肉体的なハンディについては、スポーツに顕著に表れている。大抵のスポーツは男女別である。それは肉体的なハンディを考えれば当たり前で、誰も違和感を持たないだろう。ただし、最近、権利を獲得しているLGBTの「元男」が、女子のスポーツに参加していい成績を収め、女性アスリートから抗議の声が上がっているとニュースでやっていたが、なかなか難しいところ。個人的には何でもかんでもLGBTの権利を神聖視する今の風潮に違和感を覚える私としては、「ほら見ろ」と言いたいところである。
男女別にするのはいいが、なんでこれまでと疑問に思うのは、将棋や囲碁といった分野である。お互いに座って対局する「頭のスポーツ」であり、男女別にする必要などないように思う。それを分けているのはなぜなのか。ちょっと検索をしてみると、どうやら女性の実力が格段に劣るかららしい。だが、それはなぜなのかはよくわからない。ただ、両方とも古くからの伝統あるものであり、もしかしたらかつての男尊女卑の歴史が影響しているのかもしれない。すなわち、「女のやるものではない」という歴史である。
世界史は(日本史も含めて)男の歴史である。すなわち、男が支配者として君臨してきた歴史である。これは男女の体格差、体力差から圧倒的に男が力で支配すれば女は敵わないからである。一部例外的に女性の君主もいたりするが、それは「王家」という庇護があったり、あるいは日本の卑弥呼のように背後に控える霊的な力に従ったというもので、女性が力で君臨したものではない。近年、女性が権利を得てきたのは、人類が進化して力で君臨することを改めたからに他ならない。つまり、平和な時代で進歩的な考えがなければ女性は権利を得られないということである(タリバンがいい例である)。
しかしながら、競技の世界にこれは当てはまらない。だから体力に劣る女性は女性だけで競技するようになる。もっとも、本当にそうかと思わなくもない。例えば柔道で、100キロ級以上の女子と60キロ級以下の男子が戦ったら、男子の方が強いのだろうか。体重差があれば、男と言えども女には勝てないという事もありうる。それでも男女別にするのは、いったいどれだけのハンディをつけたらいいのかが曖昧だし、やはり女に負けるのは男の沽券に関わるという事があるかもしれない。
我がラグビーも当然男女別であるが、シニアになってくると「年齢差」が大きく現れる。60代となれば20代の若者には当然敵わない。ただ、女子チームだったら20代相手でも勝てるだろうと思う。そこは老いたりと言えどもまだまだ女子には負けないという気概がある。気概だけではなく、体力的にもまだ十分上回っていると思う。ただ、試合時間が長くなればこの限りではない。一度やってみたい気もするが、おじさん連中が20代の若い女子と試合をすると、「良からぬプレー」に走るおじさんが出てくるだろうから、そういう問題がクリアーできるかは難しい。
女性がその体力的劣性を跳ね返して圧倒的な力を保持しているところが身の回りにある。それは「家庭」である。我が家も日本の中にありながら、家庭内では民主主義が適用されていない。家庭のルールはすべて妻が独断で定め、異を唱えることはできない。絶対君主制の世界で、理不尽な世界にじっと耐えるしかない。ここも男女別にできないものかと思ってみたりする。独裁政権下で虐げられている人の気持ちがよくわかる場所である。
テニスや卓球にはミックスがある。そういう男女混合も面白いと思う。ラグビーもシニアになればミックスも(対等にやれるという意味で)面白いかもしれない。「純粋な気持ち」で、20代の女性相手なら年齢差を跳ね返せると思うので、そういう混合試合も(家庭ではうまくいかないが)、してみたいと妄想するのである・・・
Gordon JohnsonによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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