【原文】
子曰、「我非生而知之者、好古、敏以求之者也。」
【読み下し】
子曰く、我は生れ而𣉻る之者に非ず、古を好みて、敏くし而求むる之者也。
【訳】
先師がいわれた。
「私は生れながらにして人倫の道を知っている者ではない。古聖の道を好み、汲々としてその探求をつづけているまでのことだ。」
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誰でもそうであるが、「生まれながらの・・・」という人間はいないと思っている。孔子とてそうであったはずである。子供の頃は鼻を垂らして近所の子供たちと遊び、親に叱られて泣いていたりもしたであろう。まぁ、それでも歴史に名前を残すような人物は、子供の頃から少しは人と違ったところはあったのかもしれない。だが、それでも偉人として人から慕われるようになったのは、ある程度大人になって歳をとってからの事であろう。スポーツや軍事指導者のような人物であればまだしも、思想的にとなるとやはりある程度の「熟成期間」は必要であろう。
人間の考え方というものは、時間とともに変化していく。それも当然の事で、人は生きていく間に様々な経験を積む。その過程で考え方も変化していく。同じ人間でもずっと内面の面で同じという人はいないだろう。よく「丸くなった」と言われる人がいるが、それなども経験を積む事による内面の変化ではないかと思う。かく言う私も、20代の頃から比べれば随分謙虚になったと思う。それはたぶん、自分も世の中という広い世界の中ではごく普通の能力レベルの人間だという事がわかったからで、「我こそ最高!」と信じていた20代の頃から現実に気がついた結果とも言える。
「大口を叩いた割には」というのは、人としても恥ずかしい経験の一つだろう。「あんな奴簡単にノックアウトしてやる!」と豪語していたボクサーが、試合であっさりノックアウト負けしたら世間的に恥をさらす事になる。勉強でもスポーツでも、強気なのはいいが、根拠のない自信ほど危ういものはない。もちろん、自分を鼓舞するとか、そういう考えあってのものもあるかもしれないが、深く考えもせずに自信満々というのは問題だろう。その危うさに気づけるのも、経験則と言えるかもしれない。そうした経験の積み重ねこそが「叡智」のような気もする。
孔子の今回の言葉もそうした謙虚な叡智を感じる。人倫の道とやらを追求している。しかし、まだ完璧というわけではない。まだまだもっと道を極める必要があると感じている。しかし、側から見れば随分と先に進んでいるように思われる。だから「先生」と言われる。「先生」ともなれば、最初から偉人だったように思えてしまう。しかし、当の本人からすればまだ道半ば。そんなに奉られても困る。そういう感じがひしひしと伝わってくる。ソクラテスは「無知の知」を唱えたと言う。「自分は知らないという事を知っている」ということで、だからこそ人にも謙虚に聞く事ができる。
レオナルド・ダ・ヴィンチは、なかなか作品を完成させなかったそうで、『モナリザ』や『聖アンナと聖母子』は、筆を加える余地がまだあるとして死ぬまで手放さなかったらしい。解剖から学んだ筋肉の表現を30年経ってから描き加えた作品もあったらしい。早々にこれで完成とするのもいいと思うが、レオナルド・ダ・ヴィンチはとことんこだわったらしい。完成したと思えばそこで終わり。まだまだ完成ではないと思えば、修行は続く。弟子たちから見れば完成形に見えた孔子も、本人はまだまだ未完と思っていたのかもしれない。
自分はどうだろうかと考えてみる。日々是勉強だとは思うし、だから毎朝の通勤電車でのビジネス書読書はやめられない。会社の取締役として、経営の一翼を担っているという自覚はあり、それゆえに会社の舵取りに対する責任感もある。一歩間違えれば、社員を路頭に迷わす事にもなり、またそうなれば自分自身の身も危うい。のんびりふんぞり返っていられるほど左団扇ではない。少なくとも70歳までは働きたいと思っているから、引退するまでは学びはやめられないだろう。明日は今日よりも賢くなっていないといけないと思っているから尚更である。
孔子のレベルとは大違いであるが、私なりに「汲々としてその探究を続けている」という自覚を持っている。引退したら、ホッとするのだろうか、それとも虚脱状態になるのだろうか。謙虚に学び続けるというよりは、正直言って下りのエレベーターを懸命に駆け上がっている感の方が強い。ただ、駆け上がれるうちは、頑張って駆け上がりたいと思う。引退する時、どんな自分になっているだろうか。これを読み返して、恥ずかしく思うようにはならないようにはしたいと思うのである・・・
dsandzhievによるPixabayからの画像 |
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