2023年6月28日水曜日

後悔先に立たないから

 毎週末、シニアラグビーの練習に汗を流しているが、そうした練習の成果は試合で出すつもりである。ところが、これがなかなか思うようにいかない。もちろん、お互い相手のいる中でのせめぎ合いであり、うまくいかなくてもある程度は仕方がない。うまくいけばすっきりいい気分だし、うまくいかなければ後悔が残る。「なぜあの時こういう動きができなかったのだろう」という思いは試合後、常に残る。基本的に試合中のプレーは「咄嗟の判断」が多い。咄嗟にいかにうまくプレーするか、は私の場合事前の準備しかない。イメージトレーニングとその場面を想定した練習である。だが、それでもなかなか難しい。


 考えてみれば、普段の生活でも「あの時ああすれば」というものは限りなくある。いわゆる「後悔」であるが、大きなものから小さなものまで、人生は後悔とともにあると言っても過言ではない。「後悔」とは読んで字のごとく、「後から悔いる」事であり、「後悔先に立たず」ということわざにもある通り、事前に悔いることはできない。事前にわかっていれば回避できるわけであり、したがって悔いには繋がらない。後悔は常に後から悔いるものでしかない。そこが何とも言えずもどかしいところである。


 今、会社で若手社員を中心に人事面談を行っている。その中で一つこちらから話をしているのは、「自己研鑽をして欲しい」ということ。我が社はシステム開発の会社であり、社員はシステムエンジニアが中心である。技術者であり、技術の向上は欠かせない。それは日々の仕事で培うものである一方、仕事以外の時間でも技術向上のための努力をして欲しいと思うからである。それは我が身を振り返ってみても(私自身はエンジニアではないけれど)、若いうちでしか自己研鑽の時間も取りにくいからである。頭の柔らかさという意味もある。なので、今、その話をするのである。


 しかしながら、そんな話がどこまで通じているかな、と思う。「あの時ああしていれば」という話は、当然後になって実感する。そうした後悔から、まだ間に合う人にアドバイスする。だが、まだ間に合う人は間に合うにも関わらず、そういう後悔を知らないからあまり我が事として考えられない。したがって、せっかくの有意義なアドバイスが届かない。仕事を終えて帰ってきて、飲みにも行きたいし、ゲームもしたい。そんな中で、自己研鑽になんか時間を割きたくないと思うかもしれない。せっかくの後悔も他人のそれは所詮他人事でしかない。


 親が子供の付き合う相手に反対するのもよくあるケース。娘が連れてきた男が売れないミュージシャンだったら、親は頭を抱えるだろう。親は自分の経験から結婚生活の大変さを知っている。だから、「現実」に目を向ける。「夢」に向かっている若者にはあまりにも魅力のない「現実」である。だが、親のそんな心配は、「愛こそすべて」の世界にどっぷり浸かっている若者の心には届かない。そんな親子の行く先は、親子の関係悪化か、悪ければ駆け落ちになる。


 人間には言葉があり、ゆえに他人に自分の意思を伝える事ができる。本当なら、後悔を含めた経験値を伝えれば、子供たちはよりハッピーになれる。実際、それで人類は今日まで発展してきているが、技術的なものはともかく、個人個人の経験値まではなかなか伝えきれなかったりする。自分の経験を良かれと思って伝えても、結局他人の経験はよほどの意識がないと取り入れられない。本人にそれを求める気があれば問題はないが、なければその経験は生かされないことになる。「あの時言う事を聞いておけば良かった」という後悔になったりする。


 後悔はしても何も生まない。ただ、次に似たような機会があれば生かせることはできるかもしれないが、たいがいはどうしようもない。ヘボ将棋なら「待った」をかけてやり直すこともできるが、実生活ではどうにもならない。前職では、「社長に万が一のことがあったら」については頭の中でシミュレーションをしていた。しかし、社長一人が会社を売って、役職員全員を路頭に迷わせるという事は想定外であった。もしわかっていたら、退職金規定を厚めに設けたり、手に入れた関連会社に資産を移したりといろいろと手は打てたと思う。とは言え、万が一の災害に対する備えとは異なり、このあたりは下手をすると背信行為にもなるし、事前に手を打つのも限度があったりする。


 人間は必ずしも先の事を予測して思い通りにやれることはない。さすればどうしても後悔はつきものとなる。つきものであるなら、避けることができないなら、受け入れて次を考えるしかない。試合前の週はいつもそんなシミュレーションを頭の中で繰り返している。前回、「これで上手くいかなかったので次はこうしよう」、「こういう状況になったらこんな風に動いてみよう」等々。必ずしも思っていた通りにはならないが、それでも準備しないよりはマシである。少なくとも、準備していれば、想定していたのと似通ったシチュエーション下で、想定していた通りプレーできたりする。


 「あの時ああすれば」という思いを消すことはできない。しかし、「この次はこうしよう」と考えることはできる。後悔はあるがまま受け入れ、そして「この次はこうしよう」と考える方向にもって行きたい。どうしようもない事はあるけれど、そういう考え方で対応しようと思うのである・・・


Małgorzata TomczakによるPixabayからの画像

【本日の読書】

    




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