還暦まであと1年となり、自分自身について改めて振り返ってみた。先日読んだ吉田松陰の書物には、「人の評価は棺の蓋を閉じた時に決まる」というようなことが書かれていた。その通りだと思う。だとすると、自分がどんな評価を受けるのだろうかはまだまだわからないことになる。「あなたが生れた時、周りの人は笑ってあなたは泣いていたでしょう。だからあなたが死ぬ時は周りの人が泣くような人生を送りなさい」(村枝賢一)という言葉があるが、意識したいと思う。今の自分はどんな風に周りから思われているのだろうか。ただ、その印象はだいぶ分かれていると思う。
平野敬一郎の小説『ドーン』に出てきた概念で、『私とは何か-個人から分人へ-』でも紹介されていた「分人」という概念は面白いと思う。簡単に言えば、人はそれぞれ状況によって異なる顔を持っているというもの。私も親に対する顔や友人に対する顔(友人といっても高校時代の友人と大学時代の友人とはまた違う)はそれぞれ違う。ある友人に見せている顔は別の友人には見せていないということもよくある。それほど大きな違いがあるわけではないが、確実に家族に見せている顔とは違うと思う。それはまた職場の同僚やシニアラグビーチームのメンバーに対するものもまた然りである。
多重人格というわけではないだろうが、それぞれの環境によって自然とそうなっていくのだろうと思う。誰でも年を取れば考え方も変わる。学生時代のノリでいつまでもいるわけではない。ところが学生時代の友人は、学生時代に形成された自分のイメージでずっと接してくる。すると、こちらも自然とその対応になる。高校生の時と大学の時も違うし、社会人になってからもまた微妙に異なっていたりする。それが証拠に友達がごちゃ混ぜになっているFacebookだと自由に投稿できなくなっている。それはある友人には知られてもいいが、別の知人にはちょっとというところがあるからである。当然、子供たちに対する顔も違う。
今の生活を考えてみると、自分には大きく分けて4つのグループがある。家庭と職場とラグビーチームとである。それ以外の友人知人関係はもちろんあるが、頻度から考えれば4つ目のその他グループになる。家庭内での自分と職場での自分とラグビーチームの自分もまた違う。家庭では妻の横暴にじっと耐え、かろうじて相手をしてくれる娘と良好な関係を築こうと気を使い、なんとか普通に会話できる息子に父親としての威厳を支えてもらって自分の世界を維持している。唯一、両親に対しては自然な自分で接している。
職場では部下に対しては威張らないように穏やかな感情を維持し、同僚と議論して自分の考えと違うことがあっても、一旦は受け入れるように心掛けている。おそらくその顔は、社会人デビューしたての頃とはまるで違うと思う。あの頃ぶつかった人たちには申し訳なく思う。たぶん、今の私の姿を見たら印象もだいぶ違うかもしれない。そう考えると、「あいつは〇〇な奴だ」という事は、あまり当てはまらないかもしれない。嫌いな相手に見せる顔と好きな相手に見せる顔は当然違う。ならば第三者から聞くその人の評判は割り引いて考える必要がある。
最近では年齢の影響もあるかもしれないが、なるべく善人でありたいと考えている。人に媚びを売るのとは違うが、あえて嫌われる必要もない。自分と接した相手にはなるべくいい気分でいてもらいたいと思う。しかしながら、根っからの善人というわけでもないから、万人に対してというわけではない。特に今裁判をやっている相手には憎まれているだろうが、それを改善しようとは思わない。むしろ徹底して勝利してやろうと考えており、そのための手加減をするつもりもない。裁判所に提出する答弁書や準備書面では相手に痛みを与えるように書いている。さぞかし私を憎んでいるだろうと思う。それもまた私という人間である。
ラグビーの試合では、チームメイトからタックルを賞賛される。私自身、タックルは得意なプレーの一つと認識していて、恐れずに行くことができるプレーである。ただ、常に満足いくものであるわけではない。試合後に褒められても、自分としては満足いくものでなかったりすると、お世辞と捉える。しかし、私のタックルを見ていると「倒してくれるので(そこまで)急いで戻らないといけないと思う」とか「自分も負けずに全力でいかなければと思う」とか言われると嬉しくなるし、お世辞とも思えなくなる。内から見た自分と外から見た自分とにギャップがあるのかもしれない。
録音された自分の声を聞いた時、誰でも自分の声とは違うイメージを持つ。それは試合の動画を観ても同じ。自分はこんな走り方をしているのか、などは改めて気づくギャップである。それと同様、私と接した人から見た私は、内なるイメージとは異なるものだと思うのが自然なのかもしれない。付き合ってみたらどんな人間なのか、知りたいと思う。それは男と女ではまた違うだろう。果たして女性から見た私はどうなのだろう。内なる紳士のイメージと大きなギャップがあるのだろうか。一度誰かに忌憚のない意見を聞いてみたいと思う。
私にもいろいろな顔があるが、その一つ一つの評価を聞いてみたいと思う。果たして自分はいい夫(これはかなり難しい)、いい父親(でありたい)、いい友人(人によるだろう)、いい同僚(であるのではないか)だろうか。評判を気にして生きるつもりはないが、好きなように生きて、いろいろとバラエティに富んだ評価になると面白いと思う。しかしながら、何よりもやはり分人を統一する内なる自分のイメージを大切にしていきたいと思うのである・・・
Gerd AltmannによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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