ロバート・レッドフォードやクリント・イーストウッドのように、俳優として大活躍しながらも監督の道に進む俳優は多い。それも「監督兼主役」のようなプレーイング・マネージャー的なものではなく、専業である。監督というのは、映画においてはスクリーンに出て来ない影の存在である。にも関わらず、1プレーヤーから全体を見渡す立場、映画そのものを創り上げる立場へ移る魅力があるのだろう。
人も年齢を経ると、教えられる方から教える方へと移動する。それは年齢とともに知識と経験とを積み増しているからである(もちろん、積み増していない人は教える立場にはなれない)。それは本人が期待する部分もあるだろうし、周りから期待される部分もあるだろう。そういう私も、先日とある企業の転職面接で「後継者を育成して欲しい」と言われたところである。
自分の性格を鑑みると、結構「教えることが好き」な方だと自覚している。自分が創意工夫して身につけたノウハウ等は人に教えてあげたいと思うのである。それを認識したのはいつかというのははっきり覚えていないが、古くは学生時代にラグビーのプレーについて後輩に教えたいと思ったのを覚えている。実際、教えたものについては、ラグビー初心者などに特に「わかりやすい」と喜ばれたものである。
そういう下地があったからだろうが、銀行に就職して最初に配属された支店で、仕事の出来る上司から「仕事は盗むもの」と教えられた時には反発を覚えたものである。「そんなまどろっこしい事をするより、教えた方が早く戦力になるだろうに」と。ただ、そこは難しいところで、「教えてもらったことは忘れる、自分で盗んだものは忘れない」(すきやばし次郎主人小野二郎)というのも事実だと思う。一流の料理人の話などには「苦労して盗んだ話」がよく出てくる。
ただ、「巨人の肩に乗る」というのも事実であり、みんながみんな1からのスタートだと同じところまでしか行けないが、たとえば4からスタートできればそれだけ遠くまで行けるだろう。「盗んだものは忘れない」のは真実だろう。それは裏を返せば「経験したものは忘れない」ということになるかもしれない。「知識」として教えられるより、実際に失敗した経験は何物にも変えがたい教訓になる。「教える」のがいいのか「盗ませる」べきなのかは難しいところである。
それでも自分はやはり教えたいと思う。特に自分がさまざまな経験から得た知識や教訓や考え方などは子供たちに伝えたいと常に思うところである。それは「自分も教えて欲しかった」という思いであり、「同じ失敗をしないように」という親心である。教えたい相手は、やはり一番は子供であるが、対象は仕事でもなんでも身近な若手ということになるだろう。どうしても同世代だと自分なりの考え方ややり方が出来上がったりしている。孔子のたとえで言えば、すでに衣服が仕立て上がってしまっているわけであり、諸侯を説くのに当たるのだろう。
「教える」というのとは少し異なるが、仕事ではかなり「任せる」というのを意識している。「まだ無理」などとは言わず、どんどん自分の仕事をやってもらうようにしている。サラリーマン社会では、よく「ワンランク上の仕事をしろ」と言われるが、なかなか出来るものではない。そんな中で、上司の方から「これやってみて」と仕事を任せるというのが手っ取り早く「ワンランク上の仕事」をすることに繋がる。最初は戸惑うかもしれないが、いずれスムーズにこなせるようになる。結果的に部下も成長するし、自分も楽できるし、できた余裕で別の仕事もできるというメリットがある。
家庭でも子供を「子供扱いしない」というのはいつも心掛けていることである。それもまた子供を成長させる術ではないかと思うゆえである。手取り足取り指導するのが一番だとは思わないが、そういう風に「自覚を促す」のも大事なことだと思う。ある程度しっかりした導きがあれば、自分ももう少しうまくやって来られたのではないかと思う。そう思うところを子供達に提供できたら、と思うのである・・・
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