2020年12月27日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その11)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
【原文】
子貢曰。我不欲人之加諸我也。吾亦欲無加諸人。子曰。賜也非爾所及也。
【読み下し】
子(し)貢(こう)曰(いわ)く、我(われ)人(ひと)の諸(これ)を我(われ)に加(くわ)うることを欲(ほっ)せざるや、吾(われ)も亦(ま)た諸(これ)を人(ひと)に加(くわ)うること無(な)からんと欲(ほっ)す。子(し)曰(いわ)く、賜(し)や、爾(なんじ)の及(およ)ぶ所(ところ)に非(あら)ざるなり。【訳】
子貢がいった。
「私は、自分が人からされたくないことは、自分もまた人に対してしたくないと思っています」
すると先師がいわれた。
「賜よ、それはまだまだおまえにできることではない」
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 なんとなく聞いたことのあるフレーズであるが、論語の中では別のところで「己の欲せざる所は人に施す勿れ」という言葉で出てくる。「恕(じょ)」という概念であるが、こちらの方が馴染みやすい。人間関係を良好に保つためには必要な考え方だと思う。それ自体、否定するつもりはないが、ではできるかと言えば難しいと答えるしかない。私も賜と同様、「おまえにできることではない」と孔子様に言われてしまうだろう。ただ、「これしかない」のも事実である。

 そもそもであるが、私には「人が考えていることはわからない」という根本的な考え方がある。子供の頃から母親に「人の気持ちになって考えなさい」というようなことをよく言われたが、その都度「人の気持ちなんかわからない」と言い返していた。事実、怒られても私には人の気持ちなんかわからなかったのである。それは今でも変わらない。親としては、「想像しなさい」と言いたかったのだと思うが、「想像はしてもその通りかどうかはわからない」というのが、今に至る正直な気持ちである。

 そういう母親だが、自分ができているかと言えば見事にできていない。先日、実家に行った時の事、長野県に住む伯父(父の兄)が野沢菜を送ると連絡してきた。毎年作ってもらっており、私も好きだから親を連れて取りに行っていたが、今年はコロナとあって行く予定が立たない。ならばと気を利かして送ってくれるそうなのだが、それを聞いた母は即座に「今送られても保管するところがないから困る」と言い出した。しかし、それは次の問題で、まずは感謝だろう。

 実は、母は昔から人の神経を逆撫でるのが得意である。新婚時代、私も気を利かして親に中元歳暮を送ったが、コーヒーを送れば「お父さん胃を壊していてコーヒーが飲めない」だの、ビールを送れば「体調を崩していてしばらく飲めない」だのと言ってきた。送った人の気持ちなど何一つ考えていない。冷静に考えれば照れ隠し的なところもあったと思うが、それであってもそう言われた人の気持ちなんかまるで考慮していない。我が家の嫁姑戦争は起こるべくして起こったと言える。

 我が家でも良かれと思ってやったことが妻に曲解される事なんかしょっちゅうだし、逆に妻に「普通はこうするでしょう」と怒られるのも常である。その都度、心の中で「普通ってなんだよ」と反論しているが、自分基準でマイルールを押し付けてくる妻には辟易するところである。誰もが同じ感性であるわけではないし、同じように考えるわけでもない。コップに半分しか水が入っていないと文句を言う人もいれば、半分も入っていると感謝する人もいる。とかくに人の世は住みにくいのである。

 そんな住みにくい人の世であるだけに、できれば人と距離を置いて生きていきたいと言うのが私の考え方。ごく親しい人だけと付き合って生きていきたいところである。ただ、そうも言っていられないので、なるべく配慮して迷惑をかけないようにと考えているが、他人がどう思うかなんてわかるわけもない。こうすれば喜ぶのか、あるいは嫌がられるのかなど想像してもキリがない。考えれば考えるほど、袋小路に入り込んで行く。

 そこで採用しているのが「自分の考え」だ。人に何かを送るとしたら、相手が喜びそうだと思って「自分が送りたいもの」を送る。その結果、相手が喜ぼうが迷惑がろうが気にしない。年賀状も自分が送りたい人に送る。相手から年賀状が来るか来ないかは関係ない。相手から来ないのが嫌なら次の年からやめればいいし、嫌でないなら送り続ける。常に自分基準である。これだとあれこれ悩まなくて良い。

 人の気持ちはわからないが自分の気持ちはわかる。ならば確実にわかるものを基準にするべきである。これはデカルトの「COGITO ERGO SUM(我思う、故に我あり)」にも通じる考え方であるようにも思う。孔子様から見れば「おまえにできることではない」と言われてしまうかもしれないが、もしも言われたとしても、それでも「これしかできません」と胸を張って答えるであろう。聞こえの良い言葉で言うならば、「己の心の声に耳を傾けて」、これからも判断していきたいと思うのである・・・


Gerd AltmannによるPixabayからの画像

【今週の読書】

  






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