初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。
ヨハネによる福音書1:1
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「神様はいるのだろうか」という疑問は、子供の頃考えたことがある問題で、おそらくそういう疑問をちょっとでも持ったことがない人はいないだろうと思う。「いる」と信じている人には申し訳ない話であるが、これだけ科学技術の進んだ現代で、純粋に「いる」と信じることはかなり難しいと思う。まぁ、ビッグバンによって宇宙が誕生し、何らかのエルネギーの働きで太陽系が出来て、地球が出来て、生物が繁栄してきたのは事実であり、その何らかのエネルギーを神とするならわかるが、いわゆるキリスト教やイスラム教などの宗教が描くような神は存在しないであろう。
もともと信仰心の薄い日本人ならともかく、イギリスのホーキング博士なども無神論者だったというが、あれだけ宇宙の仕組みを研究していたら必然的に信じられなくなるのだろうと思う。合理的に考えていけば神は存在しないという考えにたどり着くだろう。今やハーバード大学の学生にも無神論者は増えているという。しかし、一方で、もしも「神を信じているか?」と聞かれたならば、私は「信じている」と答える。矛盾しているように聞こえるかもしれないが、「存在」と「信じる」ことは別だと考えている。神は「存在するかしないか」ではなく、「信じるか信じないか」が大事だと思うのである。
もともと宗教が何で生まれてきたかというと、それはたぶん「救済」だと思う。もちろん、「雨はどうして降るのだろうか」とか、「雷は何で鳴るのか」とか、今は小学生でも知っていることを昔はわからなかっただろうから、手っ取り早く神様のなせる業としたのかもしれない。ただ、宗教として確立し、拡大していった原動力は「救済」だと思う。「苦しい状況から救われたい」という願いや「死んだらどうなるのか」という不安や、世の中の理不尽さに対して心の平安を保つのには神は優しい。この世は理不尽であっても、死んだあとは良いことをすれば天国へ、悪いことをすれば地獄へと、あの世は公平である。
「信じるものは救われる」とはまさにこの通り。人は誰でも絶望的な思いに襲われた時、神様に助けてもらいたいと思いたくなる。かくいう私も、かつて夜も眠れぬほど非常に困難な状況に陥った時があった。あまりにも辛くて毎朝神社にお参りに行くことにした。神様に救いを求めてもどうにもならないことはわかっていたが、それでもお参りをし、朝の静寂な神社という厳粛な空間の中で首を垂れることで一時の心の平安を得ることはできた。それこそが、神様のもたらす恩恵に他ならないと思う。実際に「いるかいないか」は関係ないのである。
窮地に陥ったとしても、やれることがあるうちはまだいい。それをやればいいからである。しかし、やり尽くしてしまってあとはただ結果を待つのみ、あるいは成り行きを見守るのみという時は辛い。その過ぎゆく時は心を締め付けられるような感覚になる。もうできることは「祈る」しかないとなった時、神を否定し頑なに耐えられる人はいいが、祈ることで多少なりとも心の平安につながるのであれば、それはそれで悪くない。自分がそういう状況になってはじめて感じたことで、夜も眠れぬくらいの不安に襲われるときに救いがあるのは大きい。
もっとも、だからと言って、神にすがるのは違うと考えている。そもそも存在しないのだから、すがってみても効果は期待できない。それに自力でできることは自力でやるべきで、神頼みをするものではない。神頼みをする時点で自力での達成を放棄しているわけで、それで成就するはずもない。宮本武蔵ではないが、「神仏は尊ぶが神仏に頼まず」の精神が大事だと思う。また、普段見向きもしないのに、困った時だけ神頼みというのもよろしくない。機会があれば、首を垂れる必要もあるだろう。それゆえに、私も元旦には地元の神社に詣でているのである。
「信じる」と言いながら、初詣だけかと言われそうであるが、その程度でいいと思っている。それほど熱心な信者でないし、そもそも我が国の神道はうるさい教義がない。その代わり神頼みもせいぜい家族の健康くらいであるし、緩やかに信じているのである。それよりも、信者といいながら教えを守らなかったり、曲解したりするのはいかがなものかと思わされる。その傾向は、とくにキリスト教とイスラム教に見られる。「汝殺す事なかれ」と教えられているのに「異教徒は人に非ず」として血にまみれた歴史を重ねてきている。
仏教も、ゴータマシッダールタに遡れば、個人の解脱を目的としたもので、大衆の救済は目指していない。それが途中から大衆を救済するとして大乗仏教が勝手に出てきて、日本にも伝わっている。日本では宗派によって教義も違うし、広まるにつれ人手にまみれてそもそもの姿とは異なるものになっている。そんな歴史を見れば、いくら「信じるもの」と言っても信心は起こらない。自分の葬儀にはお坊さんもいらないし、戒名もいらないし、お経も不要だし、法要も不要だと遺言するつもりである。仏様をないがしろにするつもりはないが、信者になるつもりもない。
たまに近所の神社の前を通ると、境内に向かって一礼をして通り過ぎる人を見かける。私自身、そこまで信心深くはないが、それでもそういう信心を持っている人がいることに安堵する。地元にある北野神社は小さな神社であるが、それでも境内に足を踏み入れれば、厳かな雰囲気がある。合理的な精神で「いない」と考えていても、それでもひょっとしたら本当に神様はいるのかもしれないという気分になる。古の人たちはもっと強く感じていたことだろう。そんなこともあって、信じるのは数多くいる神様の中でもやはり神道の神様しかないと思う。
Igor OvsyannykovによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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