最近は幼児虐待などという我々の感覚からは信じ難い事件が頻発しているが、普通の人間(というか生物)的な本能からいけば、我が子の幸せを望むのが親たるものだろう。我が子の幸せと言っても漠然としているが、要は人並み(以上に)成長して、就職して家庭を持ち、子どもをもうけて子孫繁栄につなげるといったところだろう。私も普通に生活していける程度でいいというくらいで、基本的には同じである。
世の母親が我が子の教育に熱心になるのもその一環である。効果は疑問に思うが、世の学歴信仰はまだ健在であり、「良い高校→良い大学→良い就職先」を視野に入れて塾だ通信教育だ家庭教師だと騒いでいる。父親だって医者であれば我が子を医者にしようとし(結果的に歯医者にしかなれなかったりすることも多い)、創業社長が二代目にしようとする。自分の事業(顧客)を維持しようという意図もあるかもしれないが、基本的には我が子が生活していけるようにという親心だろう。
そういう「親心」に子供が反発するというのもよくあるパターン。現実のみならず、映画やドラマでもありがちだ。本当は音楽をやりたいのに、親に医者になれと言われているとか(映画『キセキ あの日のソビト』など)。そういう場合、我々はついつい子供の立場で見てしまうが、その背景にある親心にも思いを至らせる必要がある。親はそれなりに人生経験を積んでいるわけであり、何が子供にとって良いのかを考えれば、あれこれと口出ししたくなるものだろう。
我が家の場合も、母親はとにかく「いい成績」を重視している。それは、「いい高校へ入れば良い大学へ行けるし、いい大学へ行ければ就職にも困らないだろう」という考え方である。少なくとも上から下へはいけるが、下から上へ行くのは難しいので、選択肢を広く持つためにもそうするべきという考えである。しかし、今はたとえ一流企業に入っても会社自体が潰れたりリストラされたり、鬱になったりと一昔前のように安泰ではない。求められるのは精神的なタフさと三種の神器(「考え方」「情熱」「創意工夫」)だと考える私とは、残念ながら妻の考え方は相容れない。
幸い、「息子にはスポーツをやらせたい」という部分では我が夫婦の考えは一致しており、結果として今息子は野球をやっている。「ラグビー最高!」という父親としては息子にもラグビーをやらせたい。しかし、幼い頃からラグビースクールに入れてラグビーをやらせることには何となく抵抗があって、学校の友達が多い野球にした。「自分も中学まで野球をやっていた」、「日本人であれば野球ぐらい経験させたい」という思いもあったが、自分の考えを息子に押し付けることに若干の抵抗感があったのも事実である。ラグビーは高校に進学してやってみたければやってみればいいと今は考えている。
残念ながら私は医者でもなければ会社社長でもない。子供たちに提供してあげられる幸せな人生などない。そういう意味では子供たちも自分たちの人生を歩むことができる。ただ、そうすると人並みに幸せな人生を歩めるだろうかという心配は残る。妻はそれに対し、「良い高校、いい大学・・・」というルートを示し、塾へ行けと尻を叩く(自分はそんなに勉強しなかったくせに、だ)。その気持ちはわかるが、私としては「どう転んでもひるまず生きていける気構えと知恵を身につけさせたい」と思っている。
どんな人間でも人生の一時期に苦しい時を迎えるだろう。それはいい高校に行っても、いい大学に行っても、いい会社に入っても避けることはできない。ならば、その時に歯を食いしばって頑張り抜く力をつけさせたいと思う。自分自身の経験を振り返ってみても、それこそが生きていくのに必要なことではないかと思う。政治家になれたって、高級官僚になれたって、一流会社の役員になれたって、最後に首を括るのでは意味がない。一流でなくても、しっかり人生のゴールラインまで走り抜いてほしい。それに必要なのは学歴ではない。
スポーツ、特に野球やラグビーなどのチームスポーツは、苦しい練習に耐えたり、仲間と協力して1つの目的に向かっていったり、勝利の喜びや敗北の悔しさを味わえたり、リーダーシップやフォロワーシップを学べたりといった利点がある。あとは模範だろう。身近な人や公の人物かもしれないし、映画や小説やマンガの主人公かもしれない。感動を得られるものであれば何でもいいと思う。宿題なんかやる暇があったら、母親の目を盗んでNetflixで『ワンピース』を観る方がはるかにいいと思う。そのために息子にはタブレットを与えたのである。
Hermann TraubによるPixabayからの画像 |
【本日の読書】
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