論語を読んで感じたこと。あくまでも解釈ではなく雑感。
〔 原文 〕
子曰。見賢思齊焉。見不賢而内自省也。
〔 読み下し 〕
子曰く、賢を見ては斉しからんことを思い、不賢を見ては内に自ら省みるなり。
【訳】
先師がいわれた。――
「賢者を見たら、自分もそうありたいと思うがいいし、不賢者を見たら、自分はどうだろうかと内省するがいい」
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生まれつきの天才などという人物はいるのだろうかと考えてみると、やっぱりそんな人間はいないと思う。生まれてからの「学習」がその才能のすべてだと思う。では、その「学習」とはどのようなものだろうか。学校の勉強も確かに「学習」の一つではあるだろうがそれだけではない。興味・関心・情熱なんてのもその要素だと思うが、もう一つ大きいのは、「人の影響」だろうと思う。
「学ぶ」とは「真似ぶ(まねぶ=真似をする)」から転じたと言われているが、これという人から受ける影響は、人が成長する大きな要因だろう。自分もこれまでの人生を振り返ってみると、「あの時ああしていれば」と思うことが多々ある。今にして思えば、経験不足・知識不足等により、うまくできなかったのである。今の自分があの頃の自分に伴走してその都度アドバイスできたら、さぞかし満足度の高い人生を送れていただろうと思うのである。
その最たるものが仕事で、もう少し身近にお手本となるべき人がいたら、随分違っていただろうと思う。これは学ぶ方の問題かもしれないが、自分にはお手本となるべき先輩とは一緒に仕事ができなかったのである。それでもゼロではなく、何人かはお手本にしたい人はいた。そんな数少ないお手本の1人は、なんと部下であった。あれは昇格して役席者になってしばらくのこと、1人の男が部下として配属された。あたふたと慣れない責任者振りを見かねた支店長が優秀な部下をつけてくれたのである。
その男は、仕事を振ると実に見事に優先順位をつける。そしてその優先順位に従って仕事をこなしていく。当たり前のことだが、私の場合、頼まれた仕事すべてが「優先順位第1位」だったのである。当然、いくつもの仕事を同時にこなすことは不可能である。それをやろうとしてパンクしていたのであるが、その男は優先順位の低い仕事は「後回しにします」とはっきり言ってやらないでいた。だから優先度の高い仕事が終わっていく。「そうか、こうやって断ればいいのか」と当時の私は納得したのである。
以後、私も言われた仕事に対し、できない場合は「これこれこういう理由ですぐにはできない」と断る術を覚えた。断られる立場(断られても対して問題ではないこと)がわかっていたので断りやすくなったと言える。部下に習うというのも恥ずべきことだが、それまで出来なかったのだから仕方がない。あの男はどこでそんな術を身につけたのだろう。転勤して別れ別れになってから今はどこでどうしているのかはわからないが、優秀な男だったからどこかで活躍しているのだろう。自分も素直に部下から学びとれたところは良かったと自画自賛している。
優秀な人を見て自分もかくありたいと思うのは、(それが自分より上の人間であれば)それほど難しいことではないだろうと思う。ただ、不賢者はどうだろうか。「あの人はあそこがダメだ」というのは日常よくあること。仕事では特にそうである。人のアラはよく目につくが、自分のは難しい。というか、「あの人はあそこがダメだ」という時、無意識に「自分はできているが」というのが前提になっているように思う。もしかしたら、「自分のことは棚上げ」しているかもしれない。
先日、私の以前勤めていた銀行に今も務める友人が、この度のコロナ対策にボヤいていた。曰く、23階の職場から上下への移動を制限されているとか、時差出勤が大変だとか、下階にある食堂に行けなくなり、同じフロアーの食堂しか利用できないとか。しかし、我らが中小企業には時差出勤できる余地はないし、オフィスは古い8階建のビルの3階で、「食堂」は自分の机か、会議スペース兼食事テーブルの兼用だ。友人には自分がいかに恵まれているかが見えていない。自分もいつの間にか「今の当たり前」に慣れきっていないか考え直してみたところである。
Keith JohnstonによるPixabayからの画像 |
【今週の読書】
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