先日の事、不動産売買の案件の話があり、ある点を巡って議論となった。その売買にはあるリスクがあって、それを避けたいが、避けるにあたってはある手続きを取らねばならず、そうすると費用が発生するというものである。「リスクは避けたいが、余計な費用が掛かるのも嫌」というジレンマに陥っていたのである。その議論を傍で聞いていて、ふと疑問に思ったので、聞いてみた。
「費用っていくらかかるんですか?」
調べてみたところ、それは数千円の話であると判明した。すると、わずか数千円の費用でこのリスクを避けられるのであれば安いものとなって、議論はあっという間に決着してしまった。「費用」のように抽象的なイメージで話をしていて、具体的に考えたら大したことではないということは、多々経験することである。別の機会では、「キャッシュフローを確保する」という理由を挙げて議論してくる相手に対し、「キャッシュフローっていくら?」と聞いて議論を終わらせたこともある。具体的な金額にすると、そこで確保されるキャッシュフローは、全体から見れば「誤差の範囲内」であったのである。
最近は、不動産価格も高騰している。賃貸用の不動産を買うのも大変であるが、さらに先日、ある物件の購入を巡って議論した。私は、「高い」と反対しのだが、その物件は周辺相場から見れば多少安かったのである。ただし、それはあくまでも「相対的な」評価。全体が上がっている時は、絶対額で判断することも必要。バブルの頃、少しでも安いと手を出し、あとで暴落してみれば「何でこんな高い値段で買ったのか」という後悔につながっただろう。そのあたりは冷静にならないといけない。
それを主張したところ、「バブル期には収益還元法の考え方をしていなかったが、今はそれがあるから同じ失敗はしない」と相手は主張してきた。そこで、「では具体的に収益還元で考えたらいくらになるのか?」と切り返した。私も目の前で具体的に数字を弾いて見せたところ、見事に採算割れした。議論はそれで終わりである。「収益還元法」という知識は知っていたものの、ではそれを具体的に使って計算するというところまで思いが至っていなかったのである。笑い話のようだが、こういう話はやたらと目にする。
かつてある財団の活動をしていた時、ある著作の引用をしようとしたところ、「著作権の侵害になる」とメンバーから指摘を受けた。それは事実であったのであるが、私はそこで聞き返した。「侵害って、誰が誰を訴えるの?」と。実はその著作の著者はその時我々の財団内のグループのトップの方であったのである。そのトップが「自分の下で働いている我々を著作権の侵害で訴えると思う?」と聞き返し、その議論に終止符を打ったのである。
今の世の中、ちょっとした知識を持っている人は多い。そういう知識を事あるごとに切り出してくるのだが(それはそれでいいことだと思っている)、それが本当の知識として活用されているかというと疑問に思うことがある。実戦で適切に使えてはじめて「生きた知識」と言えるのである。実戦で使えるとは、個々のケースで、上記の通り具体例に即して考えることであると言えると思う。
かつていつだったか親戚の伯母と議論になったことがあり、「私は良くても世間が許さない」と言われたことがある。その時も思ったものである。「世間て誰の事だ」と。突き詰めていくと、伯母が言いたかったのは「私は反対」ということ。それを言えば直接対決となってしまうから、「世間」という盾を取り出したわけである。正確に言えば、「世間を代表して私が許さない」ということだったのであろう。具体的に考えていってそういうところがわかったのである。
また、最近は個人情報の管理が大変である。そうした個人情報の管理に意識を向けるのはいいが、親しい友人同士の間柄においてさえそれを持ち出すのはいかがかと思うことがある。企業においては、当然なおざりにはできないが、親しい友人関係であれば少し緩めることは可能だろう。そうした「力加減」は簡単ではない。自分で必死に考えないといけない。「個人情報」と木で鼻を括ったように対応するのが一番簡単なわけであるが、具体例に落としてしっかり考えれば杓子定規な堅苦しい対応をしなくても済む。
「知は力なり」はまさにその通り。しかし、その知も適切に用いられなければ何の力にもならない。そして適切に用いるにあたっては、「具体的に考える」という行為がとても大事だったりする。特にお金が絡む場合、「具体的にいくらなのか」を考えると、机上の空論を無駄に戦わせなくても済む場合が多い。「具体的に」を毎度毎度促していけば、そのうちみんなそういう風に考えられるようになるのかもしれない。
そうなってくると、議論も充実し結論も早くなるのではないかと思うのである・・・
【本日の読書】
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