2013年2月20日水曜日

親父の誕生日

 本日は、親父の戸籍上の誕生日である。「戸籍上の」というのにはわけがあって、この世に生れ出た日はどうも21日だという事なのだが、役場に届け出た誕生日が20日だったというのである。子供の頃から事あるごとに、「誕生日は20日だけど本当は21日なんだ」と聞かされてきた。個人的には「マイ・ヒーロー」であるアントニオ猪木と長嶋茂雄と同じ誕生日なんだから20日の方が良いじゃないかと思うのだが、どうもそうではないらしい。

 親父は、今は仕事を辞め、趣味にしている写真を日々の楽しみにしている。年賀状はもちろん、家にもたくさんの写真が飾ってある。写真の良し悪しなど見てもわからないが、それでも何となく良さそうなものを褒めたりすると、嬉しそうにいろいろ語ってくれる。

 親父は、長野県は山梨との県境にある富士見という町の出身。小淵沢という割合メジャーな駅が近くにあって、八ヶ岳の麓の避暑にはもってこいでいながら、それでいてまだ田舎のままの町である。そこで中学まで過ごした父は、卒業と同時に東京へ出てくる
当初は地元で大工になるつもりだったらしいが、友人が兄の招きで東京に行って働く事になり、一緒にと誘われた事から東京に出てきたという。若干16歳の春である。

 今でこそ中央高速に乗れば車で2時間ほどで行けるが、当時は汽車で6時間の旅。友人と二人とはいえ、さぞかし心細い旅だっただろうと想像させられる。着いたところは印刷会社。丁稚奉公で、朝の6時に叩き起こされ、職人さん達が来る前に一働き。昼こそ45分間の食事時間があったが、朝晩は交代でわずかな時間で食べたという。田舎では麦飯が主流で、芋など色々混ざっていて、白米は大晦日に魚一匹と一緒に食べるのが唯一の機会だったらしい。ところが東京に出てきたら毎日白米で、逆に気持ち悪くなったと言う。随分生活水準が違っていたようである。

 田舎から出てきた親父は、印刷工として丁稚奉公からスタート。下着はおばあさんが縫ったさらしのもので、親父はそれが恥ずかしく、人前で裸になれなかったらしい。半年後に下着一式をもらいようやく人前で服を脱げるようになったと言う。そんな思いなど、ありがたい事にした事がない。

 仕事は夜の12時まで続く。お腹が空いて、工場の前に夜泣きそばが来ると、みんなで食べたという。さらに寝がけにお菓子まで食べて、寝るのは1~2時。今なら間違いなく労働基準法違反だ。そんな酷使が祟って親父は体調を崩す。体というよりも心の方で、幻覚まで見えたと言う。医者の勧めで故郷で療養する事になり、隣町の医者まで母親と通う。病名は「神経衰弱」。さしづめ今ならうつ病なのかもしれない。

 やがて回復し、東京に戻って仕事を再開。丁稚時代は給料などなく、映画の切符をもらって月に一度観に行くのが楽しみだったらしい。根が真面目な親父は、他の人よりも良く働き、社長の奥さんに気に入られて、よくこっそりこずかいなどをもらったと言う。

 当時の印刷業界は、職人が腕一本で渡り歩く時代。親父もやがてあちこち転職し、その都度給料が上がる。腕も良く、転職先では次の日からすぐトップクラスの時給にしてもらった事もあったらしい。けれどいずれも中小企業の話で、ちょっと大手の印刷会社に行くとたちまち「学歴の壁」が立ちはだかる。私は聞いた事がないが、たぶん自分も高校や大学へ行きたかったという気持ちもあったのではないかと思う。

 そう言えば最近、私が大学に合格した時、親父がこっそり合格発表を見に行ったという話を母に聞いた。私が「だれも行くな」と言ったからこっそり行ったらしいのだが(私にはそんな事を言った記憶がない)、ひょっとしたら自分が行けなかった大学に息子が受かって嬉しかったのかもしれない。

 エピソードはまだ長々と続く。そんな人生の途中で私が生まれ、弟が生まれ、大きくなって今では一人前の顔をしている。冒険などしそうもない親父が独立したのは、今もって不思議に思うが、自営業になったおかげでたぶん私も大学にも行けたのだと思う。同業者の中には借金を抱えて夜逃げした人もいたらしいが、大きな勝負とは無縁に生涯一印刷屋を通し、無借金で引退した。

 嫁姑関係のこじれから、あまり孫には合わせていないのが、今は唯一申し訳なく思うところだ。せめて「本番」の明日の夜は孫からバースデーコールをさせるとしよう。まだまだエピソードを集めたいし、もう少し嫁姑の関係修復に努力して、孫と交流を持たせられるようにしよう。週末にはプレゼントとして好きなワインを届けたいと思うのである・・・


【今週の読書】

それをお金で買いますか 市場主義の限界 - マイケル・サンデル, 鬼澤 忍, 鬼澤 忍 二重生活 (角川文庫) - 小池 真理子






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