【原文】
子曰、知者不惑。仁者不憂。勇者不懼。
【読み下し】
子曰く、知者は惑わず。仁者は憂えず。勇者は懼れず。
【訳】
先師がいわれた。「知者には迷いがない。仁者には憂いがない。勇者にはおそれがない」
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孔子が理想とする君子に必要な三つの徳目(三徳)「知・仁・勇」について説いたものである。「知」については、知者は知識があるがゆえに物事を正しく理解し、ゆえに判断に迷いがない。確かによくわかっている事については誰でも迷いなく判断できる。しかし、日々迷ってばかりいる私のような人間は(もちろん知者だというつもりはないが)、誰でもわからないことはあるわけであり、本当の知者などいるのだろうかと思ってしまう。
「徳」については、徳を備えた人は私利私欲がなく、自分の境遇を嘆いたり、将来を不安に思ってクヨクヨしたりすることがないという。確かに私のような煩悩の塊からすると毎日憂い、自分の置かれた境遇に満足する事はできない。否、自分では努力していても、外的な要因で不安を抱く事は多々ある。前職では、それまで不振だった先輩の会社を6期連続で増収に導き、これからという時に社長である先輩が突如会社を売却し、退職を余儀なくされた。そういう不可抗力は自分ではどうしようもない。今後、似たようなことが起こらないとは限らない。
「勇」については、本当の勇気を持っている人は、自分が正しいと信じ、困難や逆境に直面しても恐れることはないとする。しかし一方で、かのネルソン・マンデラは「勇者とは怖れを知らない人間ではなく、怖れを克服する人間のこと」という言葉を残している。個人的にはこちらの方がしっくりとくる。なぜなら、恐れという感情を持たずに済ます事は私のような人間には難しい。前職では、「最後に会社を売却して引退する事になった。ついてはみんなには会社を辞めていただきたい」と告げられた時、来月いっぱいで収入がなくなるとなった当時の私の恐怖心は今も消える事はない。
もちろん、私のような凡人に三徳が備わっているなどというつもりはない。日々迷い、日々憂い、日々恐れている。いつかそんな迷いや憂いや恐れを克服する事ができる日が来るのであろうかと思う。しかし、よくよく考えてみると、迷いも憂いも恐れもすべての根底には「欲」があるように思う。手に入れたいものがあるから、確実に手に入れる方法についてわからないから迷う。手に入らないかもしれないと考えると憂鬱になる。そして手に入らないことを想像すると恐ろしくなる。逆に言えば、欲がなくなるとすべて消えるのかもしれない。
そんな欲を克服することはできるのだろうかと考えてみる。たぶん、家族を養う心配から解放され、年金だけでなんとか生活していけるという目処がつき、ハワイに行きたいとかそういう欲望がなくなった老後にならそういう心境になるような気がする。もちろん、そんな境遇に早くなりたいなどとは思わない。欲は裏を返せば生命エネルギーであるように思う。年をとってエネルギーが消失し、その結果として行き着いた境遇であるとしたら、果たしてそれを喜べるのかというとそうは思えない。やはりできる限り煩悩=生命エネルギーを保っていたいと思う。
そうなると、三徳など理想ではあるが、手が届きそうで届かないところにあるものと言えそうである。迷い、憂い、恐る日々がこれからも続いていくのであろうが、生きるという事は迷い、憂い、恐る事なのかもしれない。それであればそれを受け入れ、なんとか乗り切ることしかないのだろう。ラグビーと同様、相手に向かい合い倒れる時は前にというスタンスで臨むしかない。覚悟を決めていきたいと思うのである・・・
【今週の読書】

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