近年、日本経済の低迷に伴って、「格差社会」という言葉が使われている。確かに、人は本来「平等」であるべきであり、格差はよくないと思う。そういうイメージから「格差社会」は問題であり、解消すべきものだと何となく思う。されど、なぜそんな「格差社会」になるのだろうかと考えてみる。近年、日本経済が低迷し、企業は業績を維持するために社員の給料を抑え、下請けに対する価格を抑制したり、海外へ生産拠点を移動したりしてきた。その結果、正社員になれない非正規社員が増加し、所得に階層が生まれている。
かつては一億総中流と言われたが、今や中間層が減少し、上か下かという感じになってきているのだろう。下になってしまうと、なかなか上へ行くのは困難であろう事は想像に難くない。では、そうした「格差」は本当に問題なのだろうかと思う。世のお母さん方は、子供に勉強させ、いい学校に入れ、いい会社に就職させようとする。それが良いか悪いかは別として、そこそこの会社に入れればまずまずの収入を得られる。「下」の定義が年収で言えばどのくらいなのかはわからないが、それほど生活苦にはならない程度には稼げるだろう。
「下」の定義としては、一つは契約社員という人たちがいるだろう。雇用は不安定だし、収入も少ない非正規社員は、確かに大変だろうと思う。政府も政策的に契約社員に代表される非正規雇用の人たちを正規雇用に切り替えた会社を優遇したりしている。では、どういう人たちがそういう非正規雇用に甘んじているのだろうか。身の回りにそういう人がいないから何とも言えないが、少なくともそれなりに学校を出て就職した人たちではないわけである。そういう「ルートから外れた人たち」であろうと想像される。
では、それはどういう人たちか。勉強を嫌って大学へ行かなかったとか。大学へ行かなくても、高校や専門学校を卒業して就職した人たちは違うだろうから、就職すらまともにせず、アルバイトのままとか、ニートとか。さらに就職しても辞めてしまって、きちんとして転職もしなかったという人たちがそうかもしれない。女性はまだまだ不利だから、一旦退職してしまったシングルマザーなんかはそうかもしれない。いろいろと人によって事情はあると思うが、一つ言えるのは、みんなその人の「選択の結果」なのではないかという事である。
我が国では、今のところ生まれによって差別されるという事はない。中には虐待などでまともに育ててもらえなかった子供もいるかもしれないが、それがすべてではないだろう。我が国では、本人が努力すればそれなりの地位を確保できる環境にはあるのではないかという気がする。つまり、格差というのは「努力の差」、「選択の結果」なのではないかと思うのである。それなりに真剣に仕事に取り組めば、何らかの成果は上がるだろうし、アルバイトでも働き方いかんで正社員に引き上げてもらえる事もあるだろう。我が国では人種差別もないし、努力次第でいくらでも安定は手に入れられるように思う。
我が社でも、なるべく自分の仕事は少なくしようとしているとしか思えない指示待ち族のおじさんがいる。一方、ある若手の女性社員は細やかな気遣いで、頼んだ仕事にプラスαの結果を出してくれている。2人の仕事に対するスタンスは対照的で、おじさんは定年退職して65歳までの契約社員になったが、この春2人の給料は逆転する。おじさんもかつては役員経験者であるが、その仕事ぶりから一期でお役御免となり、契約社員に格下げとなっている。これも本人の努力(が足りなかった)の結果であり、そういう働き方を「選択した結果」であると思う。
大学へ進学するのも、普通に就職するのも、そしてそのままきちんと働き続けるのも、多かれ少なかれ本人の努力の結果であり、選択の結果と言える。中には勤めていた会社が倒産してしまったというケースもあるかもしれないが、それなりの成果が残せている人であればそれなりの転職もできるだろう。ある程度の収入格差は仕方がないが、問題となるような格差が本当にあるのかは疑問に思う。努力あるいは選択の結果としての格差は問題視すべき格差ではない。むしろ、そういう努力と選択の結果に「格差」がつくのは当然とも言える。
格差社会を問題視するのは構わないが、本当に努力していて、それでも不可抗力でついてしまう格差を問題視すべきではないかと思う。資本主義は競争社会である。人を押し退ける競争がいいとは思わないが、指示待ち族が脱落するのはやむを得まい。選択を間違えての脱落も仕方あるまい。昔は指示待ち族でも通用したが今はもう通用しない。そういう時代としての格差社会なら仕方あるまい。格差社会を問題視する前に、どういう人たちが底辺に落ちてしまっているのか。本当に問題のある格差なのだろうかと思うのである・・・
MariaによるPixabayからの画像 |
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