2022年9月14日水曜日

論語雑感 雍也第六(その24)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。

【原文】

子曰、「齊一かはいたかはいた道。」

【読み下し】

いはく、せいひとたびかはらば、いたらむ、ひとたびかはらば、みちいたらむ。

【訳】

先師がいわれた。

「斉が一飛躍したら魯のようになれるし、魯が一飛躍したら真の道義国家になれるのだが。」

『論語』全文・現代語訳

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 ここでは「斉」と「魯」という二つの国が採り上げられる。内容からすると、道義国家とは孔子が理想的と考える国家であり、魯はもう一飛躍すればそこに至る国。そして斉はもう一飛躍すれば魯のようになれる国というようである。それぞれがどんな国だったのか興味深いが、ここではわからない。だが、一体どんな国が孔子は良いと考えたのだろうかと思う。


 そもそも私はあまり「理想の国」的な考え方を持たない。だから孔子がどんな国を道義国家と考えたのかはわからないが、そうしたものを考えない。なぜなら、国のように多くの人が住む以上、そこには善人もいれば悪人もいる。道義国家がどんな国家であろうと同じであり、そこには道義的な人もいればそうでない人もいる。非道義的な振る舞いを受けた人にとっては、そこは道義国家とは言えないだろうと思う。そういうものだろう。


 我が国も世界の中ではいい国だと思う。日ごろ暮らしているとわからないが、海外との比較では治安はいいと言われているし、落とし物が届くとか、自動販売機が壊されないとか、我々には当たり前だと思うことが当たり前でない国があるのだから、それはいい国なのだろう。しかし、そんないい国でも、格差が問題になったり贈収賄があったり、もちろん殺人事件なども普通にある。「いい国」と言ってもそれは「相対的に」という但し書きがつく。


 私は昨年会社を首になったが、それは社長が1人で会社を売却してしまったため。従業員も皆首になったが、雀の涙の退職金が支払われただけで、社長は億単位の金を1人手にして悠々自適のリタイア生活を送っている。赤字会社を立て直したのは私であるが、そんな貢献度は無視されてしまった。道義的には問題行為であるが、法律には触れていないため、社長が罪に問われることはない。みんな泣き寝入りである。


 法律がすべて正しく機能し、正義と悪とを分かてればいいが、そうではない。人の数だけ正義があり、だから裁判所に裁判が絶えない状態になる。道義と言っても結局は本人が道義的だと思っていれば、それを判定する仕組みはない。おそらく孔子の時代もそうであっただろう。そしておそらく孔子も「絶対的な道義国家」など意図しなかっただろう。「より道義的な」国という意味だったであろうことは想像できる。


 すべては相対論ではあるが、だからダメとは思わない。やはり「よりいい国」はあり、そういう国に住みたいと思うし、我が国はそういう「よりいい国」であると思う。朝、いつも同じ時間に家を出ると同じ時間の電車に乗れるし、同じ車両に乗っていれば顔見知りもできてくる。隣の駅で降りる人を覚えたので、いつも一駅乗った後に座って通勤している。毎朝同じ時間に苦もなく出勤できる。それは我々日本人が「概ね」真面目に働いている結果である。


 外出時に特に警戒しなくても安全に暮らしていられるのも「概ね」みんな平和に暮らしたいと思って他人に迷惑をかけないようにと心掛けている結果であろう。元首相が白昼堂々射殺されるという物騒な事件が起こったりするが、それでもそれは日常の一コマではなく、異例な出来事である。そういう比較的相対的にいい国に住むためには、生まれただけではダメで、そういう国を維持しようとしないといけない。それは「誰かが」ではなく、「自分が」である。自らそういう風に振る舞わないといけないと考えている。


 「非道義的なことをされたから自分も誰かにそうする」ではなく、せいぜいそれは「目には目を」に止め、他人には常に道義的に振る舞い、お年寄りには席を譲り、エレベーターでは最後に降りる。ささやかながらそういう一人一人の積み重ねが大事であろうし、自分もそういう一隅を照らしたいと思う。理想の国家も大事だが、それを求めるのであればまず我が振る舞いよりと思うのである・・・


Michael SiebertによるPixabayからの画像 

【本日の読書】

 





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