2020年8月23日日曜日

論語雑感 公冶長第五(その2)

論語を読んで感じたこと。解釈ではなくあくまでも雑感。
〔 原文 〕
子謂子賤。君子哉若人。魯無君子者。斯焉取斯。
〔 読み下し 〕
せんう、くんなるかな、かくのごとひとくんしゃくんば、いずくにかこれらん。
【訳】
先師が子賤を許していわれた。――
「こういう人こそ君子というべきだ。しかし、もし魯の国に多くの君子がいなかったとしたら、彼もなかなかこうはなれなかったろう」
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 学校教育制度の影響なのかもしれないが、私は「教えられたことを忠実に守る」というタイプの人間であった。それをはっきり自覚したのは、高校時代にラグビーのコーチから「お前のプレーは教科書通り」と言われた時であった(『進化』)。文脈的には批判的な意味合いはなかったのだが、自分では何となく「良くないこと」として受け止めた。そしてその後、大学のラグビー部に入って「創意工夫」に目覚めたと言える。

 銀行に就職して最初に配属されたのは東京の西部にある郊外店舗。高卒の叩き上げの人たちが多くいる店舗であった。直属の上司は昔気質の「仕事は盗め」と公言するタイプ。手取り足取りでは仕事を教えてくれなかった。何でもかんでも教えるのも良くはないと思う。「苦労して身につけたことは忘れない」というのも事実で、ある料理人の人などは夜中に事務所に忍び込んで先輩のレシピを盗み見したというが、当時は非効率的だと反発を覚えていたものである。

 どちらが良いのかは、一長一短である気がする。しかし、同じ時期、同じ大学の先輩で、都心店舗でバリバリ働いていた先輩に飲みに連れて行ってもらった時、いろいろと仕事に対する考え方ややり方を聞いた時、やっぱり残念に思った。こういう話を普段からもっと聞きたいと。特に「自分がいた痕跡を残す」という話に感銘を受けたのだが、それは自分が来る前と去った後でその支店の何が変わっているか、そこに自分の痕跡を残したいということだった。一年目の新人なら「書庫の整理整頓」でも良いと(『働く意味』)。

 その時につくづく感じたのは、手取り足取り教えてくれなくても良いから、身近で手本を見せてくれる人が欲しいということであった。高校時代のラグビーでは、何となく自然にレギュラーになれた。もともと人数も少なかったこともある。しかし、大学ではそうはいかず、レギュラーになるために悪戦苦闘した。自分と同じポジションの先輩のプレーと自分のプレーは何が違うのだろうか。必死に探して考えて練習した。

 その時つくづく感じたのは、一流チームの強さの秘訣である。全国から高校時代に腕を鳴らした猛者が集まってきて、それでポジションを争うわけである。みんな必死に頑張るだろう。そんな中で勝ち残ったエリートがレギュラーになるのである。我々などが太刀打ちできない強さになるのも当然である。逆に高校時代に鳴らしても、弱いチームに入って楽にレギュラーになってしまうと、強豪校に入った仲間と実力に差がついてしまうかもしれない。

 環境というのはやっぱり大事かもしれないと改めて思う。たまにお客さんの家に行くことがあるが、あるご家庭では居間に通されるものの、そこは普段の生活のまま。子供のおもちゃは転がっており、自らものを退けてコタツ机に座らせていただくあり様。話の合間もテレビは付けっ放し。私であれば、少なくとも人を招き入れるのなら、片付けられるものは目に触れないところに片付け、テレビは消して話に集中するだろう。立派な応接などなくても最低限の雰囲気づくりはできる。

 大らかであるとも言えるであろうが、そこに現れているのは「育ち」という言葉で言い表せるものであると思う。何も自分がいい家庭に育ったと自慢するのではない(逆に子供時代は狭い家に友達を呼ぶのをためらわれた方である)。他人には見せない方がいいものを平気で見せてしまう感覚とでもいうべきものだろうか。テレビ東京で『家、ついて行ってイイですか?』という番組が面白くてよく観ているが、家の中が乱雑でも平気で見せられる人とそれ故に断る人の違いかもしれない。

 中小企業になると、私もそうだが、いくつか職場を経験してきている人がほとんど。そして少なからず仕事のやり方、仕事に対する姿勢は前職の影響を受けている。ある人は、前職はとにかくトップダウンの組織であり、「四の五の言わず言われたことをやれ」という感じであったらしい。自分の意見を言うなどもってのほかで、そんな環境で30年も働いてきた結果、今ではすっかり「自分の意見を(積極的に)言わない」「言われたことしかやらない」サラリーマンになってしまっている。

 格言で言えば、「朱に交われば赤くなる」というところであろうか。人間は周りからの影響を受けて生きるものであり、どんな環境に身を置いているかは大きい。私は学歴史上主義者ではないが、高校に入って一番安堵したのは、中学時代に悩まされた当時いわゆる「ツッパリ」と呼ばれていた暴力的な同級生たちと縁を切れたことであった。そういう同級生たちは勉強をしていないから、自ずと違う高校へと進学したのである。おかげで楽しい高校生活であった。

 仕事では不動産賃貸業に従事しているが、募集に際し、「生活保護受給者でも受け入れてもらえるか」という質問を仲介業者から受けることが多い。それは生活保護受給者からの申し込みを受け付けない大家さんが多いからに他ならない。我が社はそういう差別はしないが、実際のところ生活保護を利用している人は、生活態度等に問題がある場合が実に多い。部屋の使い方も荒っぽい。下手をすると周りの人が退去してしまうこともありうる。「悪貨が良貨を駆逐する」ケースである。それは避けたいので、申し込みがあると面接をして決めることにしている。

 いろいろと経験してくると、付き合う人も含めて環境は大事だと思う。育った環境、学ぶ環境、働く環境。いい影響を与えてくれる人とは付き合いたいが、その逆はご勘弁願いたい。差別するわけではないが、不快な思いはしたくない。いい環境に身を置くためにも、自分自身それに相応しくありたいとも思う。人のためにも自分のためにも、君子の端くれぐらいにはいたいと思うのである・・・


ajoheyhoによるPixabayからの画像 


【今週の読書】
 





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